今から25年前の1993年、一般的にはバブル景気が弾けて不景気の波が企業や家庭に忍び寄っていた頃、新車ライナップを見てみると圧倒されるようなスポーツカーがずらりと並んでいた。
ソアラ、セリカ、MR2、セラ、フェアレディZ、180SX/シルビア、ビート、ロードスター、AZ-1、カプチーノなどなど。そしてこれら以外にもさらに、各メーカーはそれぞれの個性を代表する「フラッグシップカー」を用意していた。
本企画ではそんな各メーカーのフラッグシップ車を紹介しつつ、なぜ1993年にこれほど豪華なラインアップが揃えられたのか、そしてその時代に学ぶべきものがあるのではないか、などを考えてみたい。
文:鈴木直也
■なぜ日本の新車市場は1993年に最盛期を迎えたのか
1993年というとバブル崩壊の影響がいよいよ本格化してきた時期。日経平均株価は一時2万円を割り込んで、日本経済に暗い影を投げかけていた(日経平均株価の史上最高値は1989年12月の38,957円44銭)。
ところが、クルマというのは息の長い耐久消費財。開発から発売までは少なくとも4年はかかるし、次のモデルチェンジまでその後4~6年は市場にとどまる。
バブル経済でイケイケだった時代に開発されたクルマが一斉に開花したのは1989~91年頃で、そういった新車が最もたくさん走り回っていた全盛期が、実は1993年だったのだ。
(編集部註/以下、当企画ではそんな「全盛期」のなかでも特に「フラッグシップカー」と呼べるようなクルマたちを集めました)
ぼくの個人的な記憶でも、ことクルマ業界に関しては、93年はまだバブルを引きずっていた観がある。
前年にホンダが撤退したことでF1人気は低下しつつあったが、国内レースではGT-Rの活躍でグループAレースの人気が沸騰。WRCでもユハ・カンクネンを擁したセリカGT-FOURがチャンピオンを獲得。スポーツカーの人気はまだまだ高かった。
日本経済が本当にヤバくなるのは1995~97年にかけてで、93年当時の雰囲気はそんなに悲観的でもなかったというのが実感だ。
贅沢に慣れちゃった人間の意識はそう簡単に変わらない。バブルの象徴といわれたジュリアナ東京の全盛期もこの頃で、お姉さんたちはまだセンスを振り振りお立ち台の上で踊っていたわけです。
そんな贅沢な時代の最後の一花、それが93年だったということでしょうね。
■日産R32スカイラインGT-R
1973年のケンメリR以来途絶えていた「GT-R」のエンブレムが復活したのは1989年8月。伝説の初代スカイラインGT-R(PGC10)のデビューからちょうど20年目のことだった。
8代目R32スカイラインのトップモデルとして復活したGT-Rは、まさに渾身の傑作というに相応しいクルマだった。
2.6L直6ツインカム24バルブツインターボ、電子制御アクティブトルクスプリット“アテーサE-TS”、アクティブ4WS“スーパーHICAS”、そして4輪マルチリンクサス。
R32GT-Rに投入されたこれら新技術は、どの分野においても当時の世界トップレベル。
かねてから日産は「90年代に技術力世界一を目指す」という目標を掲げて「901活動」という社内キャンペーンを実行中で、金に糸目をつけずトヨタ以上にアグレッシブな技術開発を行なっていたのだ。
その走りっぷりはスポーツカーの常識を塗り替える画期的なものだった。
後輪の限界をクルマ側が察知し、余剰トルクを自動的に前輪に振り向けてトータルのトラクションとスタビリティを高めるアテーサE-TSは、限界とコントロール性をともに高めたとして絶賛の嵐。
もちろんグループAレースでも無敵の快進撃で、現在まで続く“GT-R神話”を確立したのでありました。
(なおそんなR32スカイラインGT-Rは1993年2月に「VスペックN1」を発売。94年2月に「Vスペック2」を発売し、同年11月に生産終了、1995年1月よりR33GT-Rへとバトンを渡す)
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