2019年5月26日、東名高速道路が全線開通50周年を迎えた。
東京と名古屋の大都市圏を結ぶ“東名”は、1969年5月26日の全線開通以来、日本を支えてきた自動車ユーザーにとっても馴染み深い存在。「物流」という意味では、車を普段使わない人々の生活も支えてきた高速道路だ。
新東名の開通も含めてさまざまな進化を遂げてきた一方で、開通から50年に渡って酷使され、老朽化が進む“日本の大動脈”には、今後の課題もあるという。高速道路研究家の清水草一氏が解説する。
文:清水草一
写真:編集部、NEXCO中日本
なぜ名神の4年遅れ? 東名の開通秘話と「意義」
東名で最初に開通したのは、1968年4月の東京-厚木間/富士-静岡間/岡崎-小牧間の3区間。その後順次開通し、最後が1969年5月26日の大井松田-御殿場間(東名最大の難所)だったのですね。
東名の全線開通は、名神に対して約4年遅れだった。なぜ名神の開通の方が早かったのか?
1960年代、東京ではオリンピックがあったので、高速道路では関西に花を持たせた……わけではなく、東京-名古屋間の高速ルートに関して、現在の中央道ルートと東海道ルートとの間で激しい政治闘争になり、なかなか決着がつかなかったからだ。
結局、両方とも建設することで折り合いがついたが、中央道は当初、現在建設中のリニア中央新幹線とほぼ同じ直線ルートが計画されていたため、当時の技術では南アルプスを貫くトンネル掘削が困難で、結局ルート変更せざるを得ず、東名に大きく遅れて完成することになった。
いずれにせよ、中央道ルートよりも東海道ルート沿いの方が、はるかに人口や産業が密集している。東名高速は、先に開通した名神高速と合わせて、半世紀の間日本の物流幹線として酷使されまくってきた。
2012年に新東名の御殿場-浜松いなさ間が開通するまで、東名1本で頑張ったのだ。このわずか4車線が、国家の基幹物流を一本足打法で担ったのだから恐れ入る。これは、先進国としては想像を絶する貧困な設備環境だったと言わざるを得ない。
なにしろ東名の輸送量は、他の主要路線と比べて大幅に多かった。これには日本の地理的特性が影響している。日本の大都市の多くは、太平洋ベルト地帯に沿って一直線上に並んでいる。
他の先進国は、人口も産業も面で散らばっているため交通も分散されるが、日本は必然的に東名・名神に集中してしまうのである。
新東名には未開通区間も! 今後の「課題」は?
というわけで、2012年からようやく新東名が開通しはじめ、現在は御殿場以西の区間はすべて完成した。これによって東名の交通量も3~4割減少し(御殿場以西)、新東名に転換した。現在はおおむね6:4で、新東名の交通量の方が多くなっている。
新東名の残る未開通区間は、御殿場JCT-伊勢原JCT間47キロのみ。2020年度の完成を目指して工事が進んでいる。
加えて、御殿場-浜松いなさ間に関しては、全区間の6車線化工事も始まっている(現状は約4割が6車線、6割は暫定4車線)。
この区間はもともと6車線の基本設計で建設されたので、拡幅は容易なのだ。他の区間はコストダウンのため4車線設計で、トンネルも片側2車線の幅しかないが、いずれは別線トンネルを掘って6車線化されることになるだろう。
これでようやく東名も一息つける。現在、NEXCO三社で「高速道路リニューアルプロジェクト」が進行中だが、東名・名神は最も酷使されてきた路線なので、そのぶん痛みも激しい。今後、大規模更新や大規模修繕が少しづつ行われていくことになる。
が、東名には大きな課題が残っている。最も交通量の多い海老名-東京間が、相変わらず一本足打法のままなのだ。
新東名の計画は、圏央道と接続する海老名南JCTで終了。そこから東京寄りは計画がない。正確には、横浜市瀬谷区で横浜環状西線と接続して終点になる構想だったが、横浜環状西線の建設が凍結されていることもあり、白紙状態なのだ。
東名で最も交通量が多いのは、横浜町田-海老名間の13万8067台/日と、海老名-厚木間の14万5623台/日(2015年道路交通センサス)。
新東名は、東名の最も混雑する区間の手前で終点となってしまうわけで、海老名より東京寄りの区間は、新東名の全線開通によってさらに交通量が増え、混雑も増加するだろう。
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