もう少しで名乗れそうだったのに名乗れなかった、スカイラインGTS-R。今回はGTS-RがGT-Rと名乗れなかった理由と、歴代スカイラインGT-RとGTS-Rの中古車価格を調べてみた。
文:ベストカーWeb編集部/写真:日産自動車、ベストカーWeb編集部
■ハイソカーブームに生まれた7thスカイライン
1985年8月、4ドアハードトップ、4ドアセダンが発売された7thスカイライン。1986年5月には『その時、精悍』というキャッチコピーと、フロント下部に備えたスポイラーが電動でせり上がり、収納されるというGTオートスポイラーを装着した2ドアGTSクーペをラインナップに加え、1987年には7thスカイライン全体のマイナーチェンジが行われた。
そして1987年8月、今回の本題となるスカイラインGTS-Rは、グループAレースのホモロゲーションモデルとして、全国限定800台で販売された。この時代、スカイラインGT-R待望論が多く寄せられていた。それにしてもGTS-RはなぜGT-Rと名付けなかったのか?
かつて、R30型スカイラインのRS登場の時、櫻井眞一郎氏が6気筒じゃないとGT-Rを名乗れないと語っていたが、このGTS-Rは6気筒だからその資格は充分あったはずだ。
結論を先に言ってしまえば、GT-Rを名乗らなかったのは、この2年後にデビューするR32GT-Rを開発中だったからである。
とはいえ、エンジンは魅力的だった。専用のRB20DET-R型エンジンは210ps/25.0kgmを誇った。エンジンにRの名が付いているのはせめてもの罪滅ぼしと捉えることもできる。
RB20DET型をベースに大型のギャレットエアリサーチ社製T04E型ハイフローターボチャージャーや表面積をベース比で約5.5倍に拡大した空冷式インタークーラー、専用セッティングの電子制御燃料噴射装置(ECCS)、排気効率を高めたステンレス材等長エグゾーストマニホールド、ベース比で約10%軽量化したフライホイールなどを組み込んおり、さすがといわざるをえない。
レースの舞台でのGTS-Rは、熟成が進んだ1989年シーズンの全日本ツーリングカー選手権(JTC)で長谷見昌弘選手がドライバーズタイトルを獲得している。
R32GT-Rの開発責任者となる、櫻井眞一郎氏の一番弟子、伊藤修令氏は、かつてベストカーの取材時に以下のようにこう語っている。
ちなみに、伊藤修令氏は、車両開発をほぼ終えていた7代目R31型から櫻井眞一郎氏の病により急遽開発責任者となる。その後、1989年5月に発売されたR32型スカイライン、1989年8月に登場したR32GT-Rの開発責任者として辣腕を奮った。
「R30スカイラインRSターボが参戦しているインターTECを見に行った時、ボルボなどヨーロッパのマシンに太刀打ちできなかっただけでなく、他メーカーの日本車より順位は下で、惨敗でした。その時、次期型スカイラインでは絶対にGT-Rを復活させて、ブッチ切りの速さで連戦連勝してやるぞと思いました。
櫻井さんが入院され、R31スカイラインの開発主管になったのは運輸省に届け出をするタイミングでした。実はこの時、GT-Rバッジを付けたR31クーペの試作車があったのです。
この時、櫻井さんが入院されていたので、引き継ぎはうまくできませんでしたが、やはりGT-Rはほかを圧倒する性能がなければいけないと考えていたので、GT-Rではなく、GTSと名付けました。
ジャパンやポールニューマン(R30)の時にもGT-Rを出してほしいと、みなに言われていたので櫻井さんはR31開発時にGT-R構想を立てていたのでしょう。
R31スカイラインGTS-Rは、まだボクの思い描く、ほかを寄せ付けないほど速いGT-Rとは、ほど遠かったのです。やはりGT-Rの名を復活させるのは、次期R32と決めていて、全精力を開発に注いでいました。しかしGTS-RはR32GT-Rのよい教科書になりました」。
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