中島の本流はSUBARUへ、エンジン開発部門はプリンス、日産、IHIへ
隼を開発した中島飛行機が、SUBARU社の源流となる企業だということは広く知られている。
終戦を迎えた1945年、同社は戦後処理命令によって「富士産業」に改称したが、その後、1950年には財閥解体によって解散を命じられるとともに、工場ごとなど15社に分割された。
1953年には、そのうちの5社が再び集まり、航空機生産を目的とした「富士重工業」を発足している。同社はご存じのとおり一大自動車メーカーとして発展し、2017年には「SUBARU」に社名を変更した。
一方、隼の搭載エンジン「ハ115」などを開発した部門は、戦後、「富士精密工業」として独立していたが、1954年、立川飛行機の流れを汲む「プリンス自動車工業」と合併。さらに1966年には「日産自動車」に合併している。
戦時中、中島飛行機はレシプロエンジンだけでなく、ジェットエンジン、ロケットエンジンの開発を進めていた。また、プリンス自動車工業では、日本におけるロケットの第一人者、糸川英夫氏とともに日本初となる固体燃料ロケットの開発にも取り組み、1960年には「カッパK-8」を、国産ロケットとしては初めて宇宙空間(高度100km以上)に到達させている。
日産に合併後は、中島やプリンスの流れを汲むそれらスタッフによって「宇宙航空事業部」が構成されたが、同事業部は2000年、「IHIエアロスペース」へ移行されている。
隼の設計主務者である小山悌氏は、大戦中は中島飛行機技師長・取締役や、中島飛行機三鷹研究所長を務められていが、戦後は、主に林業用機器などを製造する「富士産業株式会社岩手工場」の取締役に就任。同社は1980年、「イワフジ工業株式会社」に商号を変更し、現在に至る。
小山氏は、陸軍の「九七式戦闘機」、「隼」をはじめ、「鍾馗」、「疾風」などの設計主務者も務め、戦前日本を代表する航空機技術者とされたが、それに関わって亡くなった方々のことを想い、戦後、自身が開発した機体に関して多くを語ることがなかった。
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