当時最先端の「全金属製」「単葉」「引込脚」
さて、隼が当時、いかに先進的な戦闘機だったかを、日本軍機の系譜とともに少々ご説明したい。
隼は全金属製の単葉戦闘機である。複葉機が主翼を二枚持つのに対して、単葉とは主翼が一枚のこと。今では当たり前な機体スタイルだが、隼がデビューするわずか6年前(昭和10年)に運用が開始(制式採用)された陸軍の「九五式戦闘機」は、まだ複葉機だった。支那事変の時代である。
なぜ当時の機体が複葉だったかというと、その頃の機体は主な素材として木材を使用していて、一枚翼にするだけの強度が足りず、二枚の複葉で互いの翼を支え合う必要があったからだ。
戦闘機であるからには、大きなGが掛かる空中戦が必須。または重い機銃や爆弾を搭載する必要がある。そのとき主翼に掛かる負荷は高く、その結果、戦闘機には複葉が採用されることが多かったのだ。
また、それら複葉機時代の主翼は、骨組みに布を張り、ドープという塗装剤を塗って固める「羽布張り」仕様だった。主翼の前縁(前方の縁の部分)だけは金属製の外板が張られていたが、基本的に当時の飛行機は、機体を軽くするために、木と布でできていたのだ。
そうした状況をガラリと変えたのが、全金属製の機体の登場だ。剛性の高い金属で機体すべて構成することにより、単葉の戦闘機が初めて実現したのだ。
陸軍における最初の全金属製の単葉戦闘機は、隼がデビューする4年前(昭和12年)に制式採用された陸軍の「九七式戦闘機」。この機体を開発したのは中島飛行機であり、その設計主務者は、後に隼を生み出す小山悌(こやま やすし)氏だ。
また同年、海軍が「九七式艦上攻撃機」を制式採用したが、これが海軍機における初の全金属性・単葉機となった。この機体は、中島が開発した機体を「一号」または「三号」、三菱のものを「二号」とした。設計仕様の違う両モデルがともに採用されるという、ちょっと珍しい事例だ。
そして中島による「九七式艦攻一号」には、国産単発機としてはじめてとなる引込脚が採用されていた。これによって空気抵抗が減り、その結果、機速が大幅に上がり、同時に航続距離も延びた。
九七式艦攻は真珠湾攻撃(昭和16年12月)にも投入され、この機上から「トラ、トラ、トラ」が打電されたことでも知られている。
こうしたモデルを経て、その集大成として開発されたのが、三菱重工による海軍の「零戦」(制式採用・昭和15年)であり、中島飛行機による陸軍の「隼」(同・昭和16年)だ。そしてこの両機に当時最高のスペックをもたらしたのが、中島製のエンジンである。
隼のパイロット・インプレ
我々が空撮を行う際、隼を操縦してくれたのはブレント・コナー氏。彼は普段、森林火災などで発動されるエアタンカー(空中消化機)を操縦するベテラン・パイロットだった。
確かに、ポートランドから取材地へ移動する際も、一帯が焼野原と化してキナ臭く、森林火災の跡が拡がっていた。
大型機からレシプロ戦闘機まで、さまざまな機体を操縦するブレント・コナー氏は、隼の特性をこう語った。
「隼を見て最初に感じたのは、マスタングなどと比べてすいぶん小さい機体であること。でも胴体は滑らかでエレガントで、後方から見るとエンジンからのテーパー形状がとても美しいと思いました」
「実際に飛ばしてみると、良い意味で期待は裏切られました。安定性が高く、舵もとてもリニアに入る。舵は軽く、打った舵に対して調和性を感じます。フル・フラップにしたときの旋回性も素晴らしいですよ」
「上昇性能も高い機体ですが、同時代の機体と比べて決して機速は速くありません。零戦やワイルドキャットと同等でしょう。ワイルドキャットと一緒に飛ばす機会がありましたが、空力的には隼のほうがスムーズに感じました。パワーもだいたい同じですね」
「ただ、隼のコクピット・デザインはあまりよくありません。窮屈で、ラダーペダルではなく、ラダーバー仕様。しかもブレーキが連結されているので、フルラダーの際、ブレーキペダルに足が届かず、その併用ができないのです。この構造は改良する予定です」
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