がれき撤去と仮設住宅
5月、石巻市や女川町、気仙沼市ではがれき撤去が急ピッチで行なわれていた。建設会社の重機が多数入り、撤去のペースが上がった。ただ、問題なのは交通渋滞である。
石巻市ではまだ手信号の場所もあったため、市内を通過するにも40分くらいかかる渋滞が発生していた。がれきの量が莫大なだけに、気長にやるしかないのだろう。
大阪から来たゴミ収集車なども動いていた。牡鹿半島南端の捕鯨で知られる鮎川では、高台にある2つの校庭に合計百個あまりの仮設住宅が完成間近だった。
福島県会津地方から来ている工事関係者に、たまたま話を聞けた。約200人の作業員が女川町で唯一助かったホテルに寝泊まりしている。昼食はホテルが弁当を用意し、クルマで30分以上かけて配達する。
仮設住宅は約3週間で完成、検査後引き渡されるが、着工するまでが遅かったという。気仙沼、陸前高田、釜石の仮設住宅建設に関しては、工事関係者は内陸の一関、水沢、遠野、花巻などのビジネスホテルに宿泊し、毎朝1~2時間かけて現場に通って来る。
沿岸部には宿泊できる施設がほとんどないためだ。人員を運ぶための観光バスも他県から借り出されている。そのため朝夕は通勤ラッシュとなる。外から見れば「撤去が、仮設が遅い」などと批判が多いが、東北の現場は、内陸も含め一体で全力を尽くしてるという印象を持った。
目を見張る電線、道路の復旧
目を見張るのは、電線と道路の復旧の早さだ。電線工事に関しては、発災後直ちに全国から工事車両が集結し(札幌ナンバーから沖縄ナンバーまで見られた)、復旧を開始した。
作業は5月には平地はほぼ終わり、山間部にまで次々に電柱が建っていた。また、高速道路の復旧が早かったことは既に述べたが、国道や市道でも流された車両やがれきの撤去は早く、すぐに通行路は確保された。
女川町では地盤の沈降により道路が冠水するようになったが、砕石によりかさ上げされた。大川小学校があった北上川河口近くの石巻市河北町では土手の道路自体が流出したが、修復した後に、2kmあまりにわたって鉄板を敷きつめ、大型車両も通れるようになっていた。
また、大きく流出した気仙沼市の国道45号線小泉大橋も6月には復旧した。新幹線の復旧も非常に早かった。阪神の経験が活きたのと、行程表を決めて資材、人材を最適に投入したからであろう。
このように、「電線」「道路」「新幹線」という目的や指揮系統がはっきりしている分野では復旧が非常に速やかに進んだ。
これから何をすべきなのか 地域産業の再生(7月〜)
最後に、これから何をなすべきかだが、政府あるいは県が復興計画を示さなければ、事は前に進まないだろう。住宅建設にしろ、企業の店舗、工場にしろ、土地利用をどうするかの基本計画ができなければ民間は動けない。
復興が始まれば、物流は自然に動き出す。計画が定まり、復興が本格化するまでの期間、平地にコンテナやプレハブを利用した食堂やスーパーの建設を認めてはどうだろうか。やはり、食堂やスーパーがないと活気づかない。そしてスーパーができても、仮設住宅から遠ければ買い物に行けない。
仮設住宅に何台か車を置きカーシェアリングする、若い人が運転ボランティアをする等の工夫が必要だ。また、三陸にはもともと移動販売車という文化がある。
女川町の中心部にあった「おんまえや」というスーパーで買い物をしたことがあるが、ここには2台の移動販売車があった。震災後、トラックを利用したコンビニの店舗も登場したが、車両を活用して、そうした移動販売や「御用聞き」的機能を復活させるのがよいだろう。
気仙沼市では広大な面積の水産加工場が壊滅した。村井知事の「水産業国営化案」は漁師に反対されたが、それならすぐに引っ込めて、水産加工場を国営化するという案はどうだろうか? 軌道に乗った後には分社化民営化する。
港では加工、製氷、燃料、冷凍車などの分業ができていた。全部が一斉に復活しなければ、単独での再開はありえない。