閑散としたトラックターミナル
岩手県矢巾町にある盛岡トラックターミナルに行ってみた。昼間というのに集配トラックがズラッと並んで開店休業状態だった。本来なら、ここに全国から物資がどんどん届き、活気づいていなければならないのに……。
長距離の輸送は大型トラックで行ない、(当時まだ沿岸部への道路事情が悪かったので)宮古、釜石、陸前高田などへは、ここから2t、4t車で地元の慣れたドライバーが中継すればよい。
しかし、この物流施設(能力)は、政治、業界の不作というか、まったく機能しなかった。岩手県トラック協会に行って話を聞くと、燃料が無くまったく身動きが取れないのだという。
ならば全日本トラック協会に要請をすべきではないだろうか。当の全ト協は燃料不足について、「このままでは被災地への輸送ができない。政府には燃料供給の措置をお願いしたい」と言っていた。
しかし、燃料の輸送を担っているのもトラックだ。「タンクローリなら何台でも出しますから、石油連盟に働きかけをお願いします」と言うべきではなかったか。政府はこうした業界団体同士の調整役になり、業界団体は会員企業を機動的に動かすべきだった。
物流の回復(4月中下旬)石油供給の回復
当時、まだ寒かったし、救助、発電にも石油は非常に重要だった。だが、宮城県唯一の仙台製油所も被災していたし、多くのタンクローリも被害を受け、石油の供給はストップした。
海江田経産大臣がようやく指示を出し、全国のタンクローリによる石油の陸送が始まった。また、自民党の河野太郎議員も政府を通さないルートでタンクローリを手配した。
しかし、大量輸送は船か鉄道、タンクローリはガソリンスタンドへの配達というほうが効率はよい。
JR貨物は、JR東日本との協力体制のもと、迅速に横浜根岸から日本海を回って郡山、盛岡に至るルートを構築、大量輸送を始めた。また、5月3日にはJX日鉱日石エネルギー仙台製油所が仮復旧し出荷を再開した。
港湾被害の影響
津波は物流の重要拠点港をも襲った。八戸港(フェリー、コンテナ)、仙台港(フェリー、コンテナ)、小名浜港(コンテナ)、大洗港(フェリー)、常陸那珂港(コンテナ)。茨城県の大洗港は、北海道から関東への物資の玄関口になっており、主にトレーラの後ろだけが無人で運ばれてくる。
このフェリーが運休したため、北海道の近距離フェリーにトラックが殺到、東北へ食糧を運ぶトラックでさえ、港で20時間近く待たされる状況になった。
この問題は、フェリーが東京東雲に入港することで解決した。しかし今度は、東京港で大量のトレーラヘッドとドライバーが必要になる。大洗港のドライバーが借り出された。
彼らは東京港周辺でヘッドの中で寝泊まりしていた。そういう時、トラック協会が宿泊施設や駐車場、せめて入浴施設ぐらいの手配をしてもよいと思う。何がどうなれば、次はこうなるという想像力を働かせてほしい。
いっぽう仙台コンテナターミナルの復旧は遅く、仙台周辺の工場からの海上コンテナは、東京港、横浜港に陸送で運ばれた。取扱量が増えたためヤード内は一時コンテナを置き切れなくなるほどで、港内のトレーラの混雑は7月現在も続いている。
また、6月20日からは東北地方発着の高速道路料金が中型車以上で無料化されたが、それまでは有料だったため、復旧工事中の国道4号線が大変混雑した。
現地は総力戦(5〜6月) 最低限の物資は確保
5月に石巻市の牡鹿半島を回った。半島を取り巻くように津々浦々に漁村があり、その多くが津波により大きなダメージを受けていた。
かつては交通事情が悪く、物資不足の懸念があったが、ガソリンも足りてきており、多くのクルマが行き交う。
集落により物資の供給体制は異なるが、①ボランティア団体、②住民自ら編成した班、③自衛隊のいずれかが配布を行なっており、食料品などの最低限の物資は届いているようだった。ただ、通常の物流は回復しておらず、生鮮食料品などの供給も不足していた。
学校の避難所には沢の水を引いた仮設共同浴場も建てられ、また別の場所では軽トラに農業タンクを積んで、沢の水を汲んでいる姿も見られた。物流は住民やボランティアの工夫と努力で確立されていた。
また、石巻のボランティアセンターには数多くのボランティアがテントで野営し、数多くの、NPO、NGO、財団法人などが現地に入り込んで仕事をしていた。