3.11当日の夜、仙台市中心部では交通マヒが起こりそうだった。完全マヒを起こさずに、交通が交通であり続けたのは、ひとりひとりのドライバーの思いやりの力が大きいと思う。当日の様子を振り返るとともに、ドライバーが持ち合わせておくべき意識の在り方をお伝えしていきたい。
文:佐々木 亘╱写真:adobe stock アイキャッチ:adobe stock(tkyszk)
■電気の無い真っ暗な都市を走ることになった夜
東日本大震災から13年が経過する。毎年この時期になると、筆者は発災当日の帰路を思い出す。
地震発生当時、筆者は仙台の中心地と言われる、仙台駅のすぐ近くで仕事をしていた。
地震で建物は大きく揺れ、粉塵が立ち上がる。余震も続く中で、倒壊する恐れのある建物の中では過ごすことができず、雪の降る中、日暮れまで外で過ごした。普段はバスで通勤していた筆者が「このあとどうやって家に帰ろうか」と考えていた時、上司からクルマのカギを渡される。
同じ方面に住居がある職員を乗せて、会社のクルマで家に帰るようにという指示を受けた。急ぎ支度をして、クルマに乗り込む。時刻は午後5時を回ったころだった。
職場から自宅までは、通常45分もあればたどり着く距離だ。しかしあれだけの大地震が起こった後だ、道路がどこかで寸断されていてもおかしくない。クルマでも帰れないかもしれないなと思いながら、薄暗くなった道へクルマを走らせていった。
■暗闇の100万都市で自然に起きた奇跡の光景!交通マヒを起こさない運転意識とは?
市内中心部の車通りは思ったより少なく、序盤は順調に走っていたのだが、ベッドタウンへ向かう大きな県道につながる道路で、渋滞となった。
とうに日は落ち、外は真っ暗だ。普段は街灯が光る道だが、道を照らしているのはクルマのヘッドライトだけである。
もちろん信号機もついていない。徒歩で帰路につく人も多く、歩道も人であふれていた。さらに救急車や消防車が走るサイレンが、けたたましく鳴り響く。
この状況で、我先にと進みたいのは皆同じだったはず。ただ、普段でも混雑する片側2車線の動脈道路には、驚くべき光景が広がっていた。
誰が指示するでもお願いするでもなく、道路に救急車両が通るスペースを綺麗に開けて、クルマが並んでいるのだ。
空いているレーンを我先にと走行するクルマは無く、「ここは緊急車両用」と、ハンドルを握るドライバーが無言で示し合わせている状態である。
さらに、信号の機能していない十字路交差点も整然としていた。
十字路の横方向が一定時間クルマを流すと、後方のクルマは「そろそろかな」と感じて、交差点の手前で止まる。対向車線もほぼ同時に止まり、今度は十字路の縦方向が流れ出す。これも一定時間(2分から3分程度)経つとクルマが止まり、また横方向が流れ出すのだった。
真っ暗な道路をヘッドライトだけが照らす状況では、周りのドライバーが車内で何をしているのかを、クルマの中から確認することはできない状態だった。
表情も手での合図なども見えないままに、ひとりひとりのドライバーが「早く行きたい」という気持ちを押し殺して、互いに思い合い、交通を守ったのだ。
普段は45分の道のりだったが、家にたどり着いたのは出発から3時間後のこと。しかし道中、大きな道路の交差点を何度も通行したが、何も問題は発生しなかった。行き交うドライバー同士の争いを見ることもなく家についたことは、今でも不思議なことだったと思っている。
仙台市の動脈とも言える道路で、真っ暗な中、信号もない、誘導する警察官もいない状態で事故一つ起こっていない。クラクションが鳴る音も一切聞かなかった。そこにあったのは、何百・何千というドライバーたちが、互いを思いやる気持ちだけだったのだと思う。
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