「GT」とは、クルマ好きをワクワクドキドキさせるキーワード。日本で初めてGTを名乗ったベレットGTが誕生したのが1964年4月。1960年代~1970年代、日本のクルマは世界のGTへ挑むことで急速な進化を遂げていったのだ! 日本のGTの進化を辿る!!(本稿は「ベストカー」2014年3月10日号に掲載した記事の再録版となります)
文:編集部
■日本初の「GT」はいすゞベレットだった

イタリア語で「グランツーリスモ」、英語で言えば「グランドツアラー」の頭文字。日本語に直訳すれば「大旅行」である。クルマにおけるグランツーリスモとは、すなわち、ヨーロッパなどでは大陸を横断する長距離旅行を意味する。
GTカーとは、長距離を快適に、なおかつ運転を楽しみながら素早く移動できるクルマ、ということになる。転じて、高性能車=GTとなっていった。自動車文化で日本よりも先進していた欧米では1950年代から「GT」と呼べるクルマがラインアップしていた。
日本の自動車で初めて「GT」の名を冠したのは、1964年4月28日にデビューしたいすゞ「ベレットGT」だったことは有名な話。
その直後、1964年5月に当時のプリンス自動車が「スカイラインGT」を送り出したのだが、スカGはベレGのデビューより先に開発が公表されていて、実車のデビューはベレGが先だったが発表はスカGが先だったとか、いやいや、やはり市販車として世に出されたベレGこそ日本初のGTだ……など、GT論争が巻き起こるのだが、いずれにせよ、今年、2014年は日本のクルマに「GT」が誕生して50周年を迎える記念すべき節目の年なのだ。
いすゞがベレットを世に送り出したのは1963年のことだった。来るべきモータリゼーション時代に向けて、高性能なクルマを作り上げるというのが、いすゞの考えだった。企画の立ち上げは1959年、具体的に設計開始は翌1960年のことだったという。
いすゞ初の自社開発乗用車「ベレル」に続く、より小型の4ドアセダン乗用車が「ベレット」で、ベレルよりも洗練されたデザイン、より進化した足回りやエンジンなどを投入して開発された。
このベレットを2ドアクーペ化し、1.6Lエンジンを搭載したのが「ベレットGT」である。
ベースとなった4ドアベレットのデビューから半年後の、1964年4月に登場したのは前述のとおりである。直列4気筒1579cc OHVエンジンはツインキャブレターにより最高出力88psを発揮し、当時としては突出した160km/hという最高速を誇り、まさにGTの名に恥じない高性能スポーツクーペだったのだ。
このベレットGTとスカイラインGTが50年前の日本で、どれほどのインパクトを持って迎えられたのだろうか!?
当時の印象を三本和彦氏はこう振り返る。
「ベレットGTが出た時、当時のクルマ好きは大騒ぎしました。私からすれば『GT』という言葉が一人歩きしていた感があったもんです。というのもエンジンは1.6LのOHVだったから100psもなかったはず。だからびっくりするほどのパワーはなかった。
ただ、いすゞというのはもともとトラックやバスなどを手がけていた実用車メーカーだったから、とにかくまじめにベレットGTを作り込んでいてねえ。
だから当時の国産車としてはボディやシャシーの剛性感の高さは一歩抜きんでていた記憶があったもんです。当時の国産車のレベルは輸入車から見たらまだまだ雲泥の差があった時代だったからこれは驚きです。
なんでこのボディサイズかなという思いは当時からあってね。あと全長が15cm長ければよかったのに、という思いはありましたよ。
ベレットGTには実は試作の段階でテストコースで何度も乗せられたもんです。一番印象的だったのは足回りにステアリングがついてこなかったこと。要するにパワーが足りなかったのとタイヤそのものがプアだったんですね。だから『エンジンは2Lを載せるべきだ』と、いすゞの開発陣には進言したんですけどね。今でも当時のやりとりを思い出しますよ」
いっぽう50年前のスカG誕生前夜のことを「私はまだ就職する前のことだったので、スカイラインGTの開発現場については伊藤(修令)さんから聞いた話ですが……」と、後にR33、R34スカイラインの開発主査を務めた渡邉衡三氏は振り返る。
「日本で初めての高速道路、名神高速が栗東~尼崎間で開通するのが1963年7月。当時の日本車といえば、まだまだトラックをベースにしたような無骨で実用一点張りのクルマが当たり前。
プリンスだったら初代スカイライン、日産ならブルーバードが410型で、サスペンションはフロント=ダブルウィッシュボーン、リア=リーフリジッドという時代です。
1964年の東京オリンピック開催が決定していて、東京の道路が再整備され、高速道路の計画も本格化してきた時代で、来るべき自動車社会に向けた高性能車の開発が活発化してきた時代だったと認識しています。
モータリゼーションの成熟していた欧米のクルマとは隔世の感を覚えるほどの差がありました。当時の日本車をアメリカに持って行くと、フリーウェイの入り口で加速できなくて合流することすらできなかったといいます」と渡邉氏。
すでに高速道路網も構築され、モータースポーツなども盛んだった欧米の自動車と比べて、日本の自動車がいかに貧弱だったかがうかがい知れるエピソードだ。
そんな時代背景のなか、1963年5月、前年11月に完成したばかりの鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催された。
まだまだ日本人にとって自動車レースなど、まったくの認知度がないなかでの手探り状態での開催だった。まだ日本に「GT」を名乗るクルマは誕生していない。
「私は鈴鹿に第1回日本グランプリを見に行ったのでよく覚えています。自工会の申し合わせにより、メーカーは積極的にはレースにかかわらない、という紳士協定が結ばれたのですが、各メーカーともに水面下で活動し、事実上のワークス状態。
この紳士協定を生真面目に守ったプリンス自動車は惨敗し、来たる第2回には絶対に雪辱を果たすと奮闘。これがスカG誕生の契機となったのです」と渡邉氏は回想する。
国際スポーツカー部門で出場したロータス23やフェラーリ250GT、アストンマーチン、ポルシェ356カレラ2などの本格的なヨーロッパのスポーツカーの実力に圧倒的な差を見せつけられたという。
1964年5月に開催された第2回日本グランプリに間に合わせるためにプリンス自動車は、当時4気筒エンジンのみだったスカイラインのフロントセクションを切った貼ったで200mm延長し、そこにグロリア用の直列6気筒SOHCエンジン(G7型)を搭載したというのは有名な話。こうしてロングノーズのスカイラインが誕生した。
渡邉氏は「伊藤さんから聞いた話ですが、フロントフェンダーを伸ばすために、2枚のパネルを切って貼り合わせたと言ってました。ホモロゲには100台の生産が必須だったので、とにかく5月までに100台を作り上げるため、文字どおり手作業の突貫作業で作り上げたと言ってました」と。
1964年の1月にスカイラインGTの開発が決定され、5月のレースに先立つ3月までにホモロゲ用100台を作らなければならなかったのだという。キッチリと、事前の計画に基づいて開発されたベレに対し、スカGはレースに打って出るために短期間で一気に作り上げたというのが誕生の真相。実に対照的だ。
ところが、この第2回日本グランプリには、直前になって式場壮吉選手のポルシェ904(カレラGTS)の出場が決まった。
GT-IIクラスでの必勝を宿願としてワークス体制で臨んだプリンスにとっては純レーシングカー、しかも自動車先進国のドイツのスポーツカーメーカーポルシェが開発したマシンに挑まなければならなくなってしまったのは想定外だったのだが、「史実」が伝えるように、生沢徹の駆るスカイラインGTは、先行する式場ポルシェが周回遅れの処理に手間取っている隙を突いてトップに躍り出て伝説を作ったことはあまりに有名。

このレース、最終的には実力差のある式場ポルシェが優勝するのだが、2~6位はスカイラインGTが名を連ねる結果となり、スカイライン=日本のGTという現代につながる歴史が動いた瞬間となったのだ。
ちなみに、同グランプリのT-V(ツーリングカークラス1301~1600cc)では、10台出走したベレットGTに対し、スカGのベースとなったスカイライン1500が1~7位を独占する結果を収めている。
コメント
コメントの使い方叔父がいすゞの営業で、下取りのベレGが私の最初のクルマでした。5000rpmまでモリッと回り、その上でアタマ打ち、ブレーキがプアで有鉛ハイオクなので添加剤と無鉛ハイオク、もちろんクーラーなんて無かった。
でもクルマを自分で手を入れて管理、修理する基本を教えてくれた名車かなと。
正直なところ、今のデカいモニターの付いたブラックボックスだけのクルマに興味は無いですね、多分老害と怒られるだろうけど。