参加型モータースポーツ。かつて開催されていたミラージュやシビックレースは大いに盛り上がりも見せ、エントリー台数は60台を超えるほどだった。そんなワンメイクレースに揉まれF1チームと契約するまで上り詰めた男が、イマ参加してみたいカテゴリーは何だろうか?
文:中谷明彦/写真:HONDA、富士スピードウェイ、ベストカーWeb編集部
【画像ギャラリー】見渡す限りシビック一色!! 1980年代に盛り上がったワンメイクレースがヤバすぎ!!(12枚)画像ギャラリー雑誌編集部員時代に受けた突然のオファー
高校生の時にレーシングカートでモータースポーツを始め、F1の契約に至るまで、様々なレースキャリアを積んだ。そんな僕もツーリングカーレースにおいては「ワンメイクレース」に参加したのが最初だった。
1981年、第2世代となったシビックをレース用に仕立て、「FFスーパーシビックレース」として国内初のワンメイクレースが鈴鹿サーキットで開催されたのだ。
当時、まだ大学生だったが、バイトで出入りさせていただいていた「月刊自家用車」誌編集部からお誘いいただき参加することになったのだ。その頃のホンダは勢いが凄かった。
初のワンメイクレース開催にあたり、認知を高めようと主要な自動車雑誌編集部に参戦用の車両を貸し出し、ベストカー誌(黒澤元治氏)やCARトップ誌、CG(カーグラフィック)誌などとともに月刊自家用車誌にも声をかけていた。
だが編集部内には適格者(国内A級ライセンス以上を所持)がおらず、アルバイトで出入りしていた僕に白羽の矢がたったというわけだ。
僕はといえば、すでにフォーミュラカー(FL-B)のレースを筑波サーキットで経験していたが、鈴鹿サーキットは未経験。訪れたこともない未知のサーキットだった。
ワンメイクレースで培った経験がトップカテゴリーで役立った
初めて走る鈴鹿サーキットはコース図もなく、当時のデグナーやスプーンコーナーはまるで箱根の山道を走っているようだった。土曜日午前に初走行し、雨となった午後の予選は途中時点で30台中7位。
生沢徹氏や津々見友彦氏など有名プロレーサーも参加し、ホンダのテストドライバーチームも参加している中で、全く無名の学生バイトが生沢氏を抑えて予選シングルにつけ周囲に驚かれた。
さらに上位を狙おうとアタックを続けている際に130Rでコースアウトし、イン側のコンクリートウォールに激しくクラッシュ。マシンはエンジンのブロックが割れるほどのダメージで全損となり、日曜日の決勝は参加できなかった。
流石に2台目の貸与は得られず、国内初のワンメイクレースシリーズとなった「FFスーパーシビックレース」で決勝を走る機会は無くなってしまう。
しかし、同シリーズの人気は凄まじく、台数も増えたため2年後には「シティブルドッグレース」がシリーズで開催されるようになり、このレースでは何度か参戦してトップを走る機会も横転クラッシュすることもあった。
何よりFFでターボエンジンにLSDを装着した超ショートホイールベースのブルドッグのハンドリングは激烈で、後々に役立つ経験となる。
その後は三菱自動車のミラージュカップやVWゴルフポカールカップなどワンメイク中心に活動し、優勝やチャンピオン獲得、マカオGPの海外レースにも参戦する機会に繋がり、プロレースドライバーへの道が切り開かれたのである。
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