「これまでにない存在感」「新たな価値観の創造」「圧倒的なインパクト」・・・などなど。クルマの世界において初代モデルが与える影響は大きい。つまり「はじめが肝心」というわけだ。
ツカミはOK!のごとくユーザーの心をわしづかみにできれば、歴史に残る名車として後世まで語り継がれていくことになるだろう。
今回、「存在が偉大すぎた!? 初代がもっとも輝いていた日本車7選」と題して、時代を超えて強烈な印象を残す初代モデルを取り上げてみた。デビューから30年以上経過しているモデルも少なくない。
当時、生まれた子どもが、一人前になっているほど時間が経っているとは思えないほどインパクトを残していることに改めて驚かされるとともに、初代モデルの放つ存在感の重要さを改めてお伝えしたい。
文/松村透
写真/松村透、トヨタ、日産、ホンダ、三菱、マツダ
【画像ギャラリー】30年前にデビューしたとは思えない!? いまだに強烈な印象を残す初代モデル
■無数に存在するモデルのなかで強烈なインパクトを放つには最初が肝心!?
初代モデルが一定の評価を得て、人気車種となった。上々のスタートを切ることができたといえるだろう。
しかし、問題はその後だ。どれほど魅力的なモデルであってもやがて商品力が落ちてくるし、古さが目立つようになる。
そのため、メーカーとしてもどこかのタイミングでフルモデルチェンジを行うか、場合によっては初代モデルのみで終わらせるかの決断を迫られる。永遠に初代モデルを生産・販売していくわけにはいかないのだから。
初代モデルの売上げが順調でれば、メーカー側によほどの事情がない限り、デビューから数年経つとどこからともなく次期モデルのうわさが聞こえてくる。
強烈なインパクトを与えた初代モデルの後継車ともなれば、否応なしにユーザーの期待が高まるのはいうまでもない。
■いまだに絶大なインパクトを持つ、初代モデルの日本車7選
今回「いまだに絶大なインパクトを持つ、初代モデルの日本車」を7台、ご紹介したい。
奇しくもバブル景気の頃にデビューしたモデルばかりだが、今、振り返ると、単に当時は景気がよかったというだけでなく、日本車の変革期・過渡期であったのかもしれないとすら思えてくる。
そして、いまだに現役マシンとして、日本の、あるいは世界の道を走り続けていることに感動すら覚える名車ばかりだ。
●1.ホンダNSX
・販売時期:1990年9月
・エンジン:V型6気筒DOHC
・排気量:2977cc、3179cc
・ps/kgm:280ps/30kgm、280ps/31kgm
・価格帯:800.3万円〜1195.7万円
・キャッチコピー:our dreams come true、緊張ではない、解放するスポーツだ
◎初代が偉大すぎたゆえ、後継モデルが受けた影響とは?
1990年、まさに日本がバブル絶頂期にデビューした初代NSX。これまでの日本車とは一線を画すフォルム、車両本体価格800万円オーバーという値付けに大きな衝撃を受けたクルマ好きも多いだろう。
それでも注文が殺到し、後にNSX-Rがデビュー、1997年のマイナーチェンジ時にはエンジンの排気量が3.2Lに拡大されるなど、2005年まで15年間も生産された。
いまや伝説のF1ドライバーとなった感のあるアイルトン・セナ自ら所有し、ドライブしたクルマであること。そして何より「ホンダにしか作れないクルマ」であること。数え上げればキリがない。
つい先ごろ、生産終了がアナウンスされた2代目NSX。2016年デビューから現時点で5年しか経っていない。
2代目NSXも3.5L V6 DOHC ツインターボエンジン、3モーターハイブリッドシステム「SPORT HYBRID SH-AWD」を採用をはじめとする、現代のスーパースポーツの称号を得るだけの性能は持ちあわせているが・・・。
NSXという車名こそ同じだが「似て非なるもの」となってしまった感がある。何かが足りない。それに加えてあまりにも高価になりすぎた。
初代NSXの800万円オーバーという価格も桁違いだが、2代目NSXは2370万円〜。さらにオプションを加えれば3000万円近い金額を用意しなければならない。もはや多くのユーザーにとって頑張ってどうなる領域ではない。郊外の新築一戸建てが買えてしまうレベルだ。
もともと流通台数が少ないだけに、中古車価格が一時期の初代NSXのように500万円以下になることはもはや絶望的だろう。
9月に最終モデルとなるタイプSが世界限定350台、日本国内の割当てが20台とアナウンスされたばかり。最後の最後で熾烈な争奪戦が繰り広げられたのは何とも皮肉な話だ。
初代NSX、なかでもNSX-Rがプレミア価格となってことは多くの人が知るところだ。果たして、2代目NSX タイプSも同じ運命をたどることになるのだろうか・・・。
日本での存在感を充分にアピールできないまま、惜しまれつつ生産終了となる2代目NSX。
偉大なる初代モデルと比較して「日本人が求めるNSX像との乖離があったこと」「あまりにも高価になりすぎたこと」「販売網が限られていたこと」「避けてとおれないカーボンニュートラル対応」が挙げられるだろう。
●2.トヨタセルシオ
・販売時期:1989年10月
・エンジン:V型8気筒DOHC
・排気量:3968cc
・ps/kgm:260ps/36kgm
・価格帯:445万円〜653万円
・キャッチコピー:この車から、クルマが変わります
◎初代が偉大すぎたゆえ、後継モデルが受けた影響とは?
来場者数が歴代2位を記録した1989年に開催された第28回東京モーターショー(1位は1991年)の年にデビューしたのが初代セルシオだ。
初代NSXの登場により、日本が世界に誇れるスポーツカー(・・・というよりスーパースポーツだろうか)として新たな領域に足を踏み入れたとしたら、初代セルシオは高級車の新たな扉を開いたクルマとして異論はないだろう。
キャッチコピーである「この車から、クルマが変わります」と謳ったとおり、あきらかに「この初代セルシオから、日本の高級車は変わった」のだ。
V8 4Lエンジンや車内の圧倒的な静粛性、高級感、仕立ての良さ。エントリーグレードのA仕様ですら車両本体価格は450万円。最上級グレードのC仕様 Fパッケージ装着車ともなれば620万円。
一時期は納車まで2年待ちといわれるほど飛ぶように売れた。納車まで待ちきれずに左ハンドル仕様のレクサスLS460が逆輸入され、プレミア価格で販売される事態となった。
ちなみに、現在もトヨタ車に装着されているエンブレムはこの時から採用されている。もう30年以上も前のことだ。
初代セルシオが発売されてから5年後の1994年10月、2代目セルシオがデビューを果たした。よくいえば正常進化版、つまりあきらかなキープコンセプトであったことは否めない。
2代目セルシオが開発段階でバブルが崩壊したことが多少なりとも影響を及ぼしていると推察するが、インパクトがありすぎた初代セルシオと比較してあまりにも地味だった。それなりにクルマに詳しい人でないかぎり、どちらが最新のセルシオが見分けがつかなかったかもしれない。
その点はトヨタも思うところがあったのだろうか。1997年7月に大規模なマイナーチェンジを実施。
外観も見た目が一新されただけでなく、ATの5速化やエンジンの出力向上(265psから280psへ出力向上)、ディスチャージヘッドランプ(オートレベライザー付き)の採用をはじめとする仕様変更を行い、進化の度合いをアピールした。
2代目セルシオ、なかでもマイナーチェンジ前のモデルと初代モデルを比較すると、バブル崩壊後とはいえ「あまりにも守りに入りすぎたこと」「ユーザーにとって分かりやすい目新しさが足りなかったこと」が挙げられるだろう。
●3.日産セフィーロ
・販売時期:1988年9月
・エンジン:直列6気筒DOHCターボ、直列6気筒DOHC
・排気量:1998cc
・ps/kgm:205ps/27kgm、155ps/18.8kgm
・価格帯:195.3万円〜321.8万円
・キャッチコピー:くうねるあそぶ。
◎初代が偉大すぎたゆえ、後継モデルが受けた影響とは?
初代セフィーロのキャッチコピーである「くうねるあそぶ。」は、コピーライターの糸井重里が考案したものだ。
スカイラインやローレルとシャーシを共有しつつ、プロジェクターヘッドライトを採用した特徴的なフロントマスク、サッシュレスのドアを採用した独特のフォルム。
80年代に一世を風靡したハイソカーブームとは異なる、カジュアルで若々しさが感じられる4ドア車が誕生した瞬間だ。
RBエンジンが搭載され、ターボモデルも用意された。駆動方式はFR。さらにMT車も選択できたので、スポーツセダンとしてのニーズにも応えるスペックを持ち併せていたのだ。
また、注文時に内外装の色や内装の素材、エンジンやミッション、サスペンションをはじめ好みに合わせてカスタマイズできる「セフィーロ・コーディネーション」は、「自分だけのこだわりのセフィーロ」を求めるユーザーの購買意欲を刺激したに違いない。
2代目セフィーロがデビューしたのは1994年。一転して落ち着いた雰囲気を放つ4ドアセダンとして生まれ変わった。
マキシマと統合された2代目セフィーロは、駆動方式がFFに変わり、当時の次世代エンジンであるVQエンジンをはじめて搭載したモデルとなった。
車両本体価格は200万円台が中心。ラグジュアリー仕様のエクシモ、スポーティなSツーリングを軸に展開され、アッパーミドルクラスのセダンとして人気を博した。
それでいて2代目セフィーロの印象が薄いのは「良くも悪くも淡泊な印象が否めない」ことが挙げられる。しかし、それはクルマ好きに限った話かもしれない。
現に、ワンオーナー車と思しき2ケタナンバーを掲げた2代目セフィーロを見かけることがある。少なくとも20年以上は乗り続けている計算だ。それだけ長きに
わたって愛着が持てるクルマ、ということなのだろう。
●4.日産シーマ
・販売時期:1988年1月
・エンジン:V型6気筒DOHCターボ、V型6気筒DOHC
・排気量:2960cc
・ps/kgm:255ps/35kgm、200ps/26.5kgm
・価格帯:383.5万円〜510万円
・キャッチコピー:きっと、新しいビッグ・カーの時代が来る
◎初代が偉大すぎたゆえ、後継モデルが受けた影響とは?
「シーマ現象」なる言葉を生み出した初代シーマがデビューしたのは1988年。
全車3ナンバー専用ボディを身にまとい、エンジンはV6 3LのNAとターボの2本立て。車両本体価格は300万円台後半から。名実ともに威厳のある高級車が誕生した。いまでは信じられないが、これほどの高級車が社会現象を巻き起こすほど飛ぶように売れた時代があったのだ。
初代シーマにまつわる最近の話題としては、女優・伊藤かずえが新車ワンオーナーで所有している個体のレストアプロジェクトだろう。今年4月から日産がレストア中であることは多くのクルマ好きが知るところだ。
2021年10月現在も進行中のレストアプロジェクト、オーナーでないにも関わらず、我がことにように完成を心待ちにしている人も多いに違いない。
実は、初代シーマの生産・販売期間はおよそ3年。1991年には2代目となるシーマがデビューしている。これを機に、セドリック/グロリア シーマではなく、単体でシーマとなった。
これまでのピラーレスハードトップからサッシュレス4ドアセダンへと生まれ変わり、搭載されるエンジンはV6 3LからV8 4.1Lへとさらに大型化。
2代目シーマに搭載されたエンジンの排気量は当時「事実上のライバルと目された初代セルシオを上回るため」などといわれたものだ。
初代シーマよりも長く、5年間生産・販売された2代目シーマだが、初代に比べて印象が薄い印象は否めない。その理由として「若々しさが薄れたこと」「キープコンセプトゆえの目新しさが足りなかったこと」が挙げられるだろう。
●5.ホンダオデッセイ
・販売時期:1994年10月
・エンジン:直列4気筒SOHC、V型6気筒SOHC
・排気量:2156cc、2997cc
・ps/kgm:145ps/20kgm、200ps/27kgm
・価格帯:179.5万円〜359.5万円
・キャッチコピー:幸せづくり研究所。
◎初代が偉大すぎたゆえ、後継モデルが受けた影響とは?
セダンとは異なるオシャレさと広大なラゲッジスペースを併せ持つステーションワゴンが大人気だった1994年。それまではどちらかというとマイナーな存在だったカテゴリーに、1台のクルマが誕生した。ホンダオデッセイだ。
3列シートが用意され、1度に大人数が乗車できるパッケージング、車内の移動ができるウォークスルー機能を実現。さらにシートを格納することで生み出される広大なラゲッジスペースは、セダンベースのクルマでの実現は極めて困難だ。
ファミリー世代にとって抜群の使い勝手と、大人数が快適に過ごせる車内。これにセダン並みの快適性と動力性能が加わったことで、ファミリーカーとして申し分ない要素を持った初代オデッセイは大ヒットモデルとなった。
まさにミニバンというカテゴリーのクルマを日本のファミリー層に定着させた立役者ともいえるだろう。
それから5年後の1999年。オデッセイは2代目へとフルモデルチェンジを果たした。しかし、初代オデッセイがデビューした当時はブルーオーシャンだったミニバン市場は、各自動車メーカーが相次いでニューモデルを発売し、いつの間にかレッドオーシャン状態に。あらゆるクルマのカテゴリーのなかでも屈指の激戦区となっていたのだ。
初代オデッセイのキープコンセプトという形でデビューした2代目オデッセイは「その手堅さゆえに新鮮味に欠けた」といっていいだろう。それは同時に、しのぎを削る激戦区でのアピール力の弱さをも意味する。
初代モデルのフォルムを貫きつつ、2013年には5代目へと進化したオデッセイ。2020年に大幅なマイナーチェンジを行ったばかりであるにも関わらず、生産工場であるホンダ埼玉製作所 狭山工場の閉鎖に伴い、年内に生産終了と発表された。
間もなく、27年にわたるオデッセイの歴史に幕が下ろされる。ミニバンの歴史を変えたクルマが静かに表舞台から去ろうとしている。
●6.三菱ディアマンテ
・販売時期:1990年5月
・エンジン:V型6気筒SOHC
・排気量:1998cc、2497cc、2972cc
・ps/kgm:125ps/17.5kgm、175ps/22.6kgm、210ps/27.5kgm
・価格帯:199.8〜437.8万円
・キャッチコピー:あのクルマとは違う。ファースト・ミディアムカー宣言、やわらかな、深度。
◎初代が偉大すぎたゆえ、後継モデルが受けた影響とは?
3ナンバーが今とは比べものにならないくらい別格の存在だった80年代までとは異なり、高級車がグッと身近に感じられるようになった90年代。
ちょうどGX80型マークIIの後期モデルや初代ディアマンテがデビューしたあたりだろうか。これには1989年に自動車税の基準が排気量ごとに区別されたのが影響していると考えていいだろう。
それまでは3ナンバーというだけで81,500円もの税金を納める必要があったのだ。
この金額は、現在の基準(重課税がないものとして)だと、4.0L超〜4.5L以下(75,500円)以上、4.5L超〜6.0L以下(87,000円)以下といったところだ。これだけのエンジンを搭載するクルマといえば、それなりに大型か高級車である確率が高い。
そんな法改正のタイミングに乗り、1990年にデビューしたのが初代ディアマンテというわけだ。全車3ナンバーボディを採用。これで排気量を問わず、無条件で3ナンバー扱いとなる。初代ディアマンテに用意された2L、2.5L、3Lエンジンの3種類。
2Lエンジンのみレギュラーガソリン、2.5L、3Lエンジンはハイオク指定と、「予算カツカツからそれなりに余裕があるユーザー」まで幅広いターゲットを網羅していた。グレードの違いといっても、一般のユーザーからすれば見た目はほぼ同じだ。
さらに、セルシオやシーマのような高級車ではないが、何かと出費がかさむ子育て世代のお父さんでも頑張って手を伸ばせば届かないこともない・・・。この絶妙なポジションがウケにウケた。
人生初の3ナンバー車を手に入れ「ついに俺もここまできたか・・・」と、密かに喜びを噛みしめたお父さんがいたはずだ。
ちなみに「あのクルマとは違う」という、当時の挑発的なコピーも印象的だ。果たして何のクルマを指したのだろうか。
そして1990年のデビューから約5年、1995年に2代目ディアマンテがデビューした。2Lエンジンは廃止され、2.5L、3Lエンジンの2種類。デザインはあきらかにキープコンセプトであり、どちらかというと地味な存在となった感がある。
度重なるエンジンの仕様変更をはじめとするマイナーチェンジや小変更を繰り返し、2005年まで実に10年間ものあいだ生産されていたことはすでに忘れられつつある事実だ。惜しまれつつ、ディアマンテはこのモデルで生産を終了した。
これは余談だが、オーストラリアからの逆輸入車という形で初代、2代目ともにディアマンテワゴンが存在していたことも追記しておきたい。
2代目ディアマンテが初代に比べて印象が薄いのは「キープコンセプトの色が強かったこと」「1990年代後半から相次いでデビューしたミニバンへと市場のニーズが変化」したことが挙げられるだろう。
●7.マツダユーノス ロードスター
・販売時期:1989年9月
・エンジン:直列4気筒DOHC
・排気量:1597cc、1839cc
・ps/kgm:120ps/14kgm、130ps/16kgm
・価格帯:169万円〜340万円
・キャッチコピー:だれもが、しあわせになる。
◎初代が偉大すぎたゆえ、後継モデルが受けた影響とは?
アラフォー以上の世代であれば、ユーノスロードスターがデビューした当時のことを記憶している人も多いだろう。事実、デビュー当時から売れに売れた。
学校を卒業して社会人になった途端、ローンを組んで新車のロードスターを購入したという若者も、当時では珍しいことではなかった。また、日本屈指の別荘地である軽井沢の街中がユーノスロードスターであふれたという逸話があるほどだ。
限定車を発売すれば争奪戦となり、人気モデルゆえにカタログモデルの中古車価格も高騰した。
その後、国内外の自動車メーカーから2シーターのオープンモデルが相次いでデビューしたのは知ってのとおりだ。トヨタMR-S、フィアットバルケッタ、MG-F・・・どれも1代限りで姿を消してしまった。
しかし、ロードスターは1998年に2代目へとフルモデルチェンジを果たした。いわゆるNB型である。
初代モデルであるNA型の正常進化モデルであり、キープコンセプトともいえるNB型がデビューした2年ほど前の1996年、マツダはフォードの傘下となっていた。
バブル崩壊の波に飲み込まれ、経営危機に陥っていたマツダにとって、非常に苦しい時期であったことは想像に難くない。それでもロードスターは2代目へと進化を遂げ、延命したのだ。
当時から初代ロードスターと比較されることの多かった2代目ロードスターは2005年まで生産・販売され、3代目となるNC型がデビューした。
実は、歴代ロードスターのなかでは初代モデルの生産台数(43万1506台)に次ぐ2番目の記録(29万0123台)を誇る2代目ロードスター。
初代に比べて印象が薄いのは「(結果として)中継ぎ投手的な役割に徹した」からではないかと推察する。その大役を見事に果たしたからこそ、ロードスターの歴史が今日まで途切れずに続いていることは紛れもない事実だ。
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