今から四半世紀ほど前の1990年代後半、倒産の一歩手前という状況にまで陥っていた、日産自動車。1999年にルノーの傘下に入ることになり、どうにか倒産を免れ、その経営を立て直すためにルノーから派遣されたのが、ご存じ、カルロス・ゴーン氏だ。
当時、ルノー副社長だったゴーン氏の指揮のもと、車種の統廃合、大規模リストラ、村山工場の閉鎖など、過剰だったコスト体制をスリム化する「ニッサン・リバイバル・プラン」を実行。その結果、日産は見事なV字回復を遂げることができ、2002年、その復活を象徴するように「Z33型フェアレディZ」が登場する。
フェアレディZはZ32型が2000年9月に販売終了となっており、一度その系譜は途絶えている。Z33の登場は、日産とZの復活を意味していた。このZの復活に関しては、「スポーツカーの開発どころではなかった日産は、フェアレディZの開発をストップしていたが、カルロス・ゴーン社長(当時)の指示により、開発を再開した」というストーリーが知られているが、フェアレディZはゴーン氏がいなければ消えていたのだろうか。
文:吉川賢一
写真:NISSAN
Z復活はゴーン氏就任以前から始まっていた
「ニッサン・リバイバル・プラン」というショック療法が功を奏し、日産は、2003年までの4年間で2兆円を超える巨額の借金を完済し、当初の予定より1年前倒しで目標を達成。その後「日産180」という中期計画が発表された。ちなみに、筆者はその「日産180」時代に、日産に開発エンジニアとして入社した一人だ。
Z復活に関しては、筆者の入社前の話なので、その現場にいたわけではないが、ゴーン氏が日産のCOOに就任したのは1999年6月(2000年にCEO就任)のこと。Z33型フェアレディZのプロトタイプがワールドプレミアされたのは、2001年の1月であり、通常3年は要する新車開発、しかも肝入りのフェアレディZを、いくら豪腕ゴーン氏の指示であっても、たった1年半で登場させられるはずがない。
もちろん、ゴーン氏が「GO」を出したからZ33が登場したことには違いないが、Zの次期型モデルに関しては、ゴーン氏のCOO就任以前から、開発内部で先行検討がなされており、その事前準備の成果とZ復活のシナリオを、企画担当者がゴーン氏に提案して「GO」サインをもらい、晴れてプロジェクトがスタートした、というのが本当のストーリーだろう。
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