■1978年以降はKP61系スターレットをベースに改造
実際の作業では、改造のベースとなる新車がメーカーから綱島工場に直接輸送され、色番号で指定された白と黒のパトカー色に塗装をして、赤色灯やサイレンなどの装備を架装していくという手順で進められた。
サイレンは現在のような電子サイレンではなく、モーターサイレンを左フロントフェンダーに装着するというものであった。
これらすべてを装備したうえで、メーカーでの完成検査を受け、さらに陸運局に改造自動車等届出書を提出し、審査を受けて認証を受ける。秋田の車検場で1台1台持ち込み現車確認のうえナンバープレートが交付されたのだ。これらの一連を、この人物が陣頭指揮を執って進めたのだ。
「大変な仕事でしたが、やり遂げたという思いは大きいです。初年度の昭和48年は15台納入。翌年はオイルショックの影響などもあり台数は減りましたが、退社する昭和58年までパトカー納入の仕事に携わり、トータルで100台以上を納めさせていただきました」
当時の写真だけでなく、図面や申請書類の一部も記録として保管してあり、当時のパトカー導入の現場を知る、貴重な資料となった。
【番外コラム】パブリカってどんなクルマ?
初代パブリカ「P10/20型」のデビューは1961年。国民車構想を背景に、高速道路時代を見据えて開発された小型乗用車だ。
初代は空冷2気筒700ccエンジン(1966年以降800cc)を搭載していたが、今回のパトカーになったモデルは1969年にモデルチェンジした2代目で、空冷2気筒も残置していたが、水冷直4、1000ccエンジンが主力となっていた。
特にパトカーになった1973年モデルは前年のビッグマイチェン以降のモデルでフロントマスクのデザインなどが大きく変更された以降だ。
1973年4月には上級スポーツモデルとして「パブリカ・スターレット」(P40型)が登場。1978年2月にP61型スターレットが登場するとパブリカの乗用車系統はスターレットに統合される形で販売を終了した。
【画像ギャラリー】秋田県警へのパブリカ導入に尽力したキーパーソンのアルバムから発掘された貴重な記録(22枚)画像ギャラリー
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