茨城交通が鉄道からバスへと転換した時代を水浜電車の残影から訪ねる

茨城交通が鉄道からバスへと転換した時代を水浜電車の残影から訪ねる

 茨城県水戸市内を流れる桜川に掛かる水門橋は、かつては茨城交通水浜線と道路との併用橋であった。よく見ると橋上の舗装道路の中に撤去されていない短いレールがその姿を見せている。鉄道からバスへと転換した茨城交通の面影を訪ねる。

(記事の内容は、2018年3月現在のものです)
文・写真(特記以外)/諸井泉
取材協力/茨城交通(株) おらが湊鐡道応援団 食事処ほんだ
参考文献/茨城交通30年史(昭和52年5月31日 茨城交通発行)
※2018年3月発売《バスマガジンvol.88》『あのころのバスに会いにいく』より

■水浜電車が母体となって誕生した茨城交通

桜川に掛かる水門橋に今なお残る水浜線レール
桜川に掛かる水門橋に今なお残る水浜線レール

 茨城県水戸市内を流れる桜川に掛かる水門橋。よく見ると、橋上の舗装道路の中に撤去されていない短いレールが。このレールこそ、かつてここに電車軌道・茨城交通水浜線が敷かれていたことを物語る手がかりである。

 なぜこのレールだけが撤去されず残されたのか。このわずか1mにも満たない軌道レールから茨城交通の歴史をたどってみる。

 橋のかたわらには水浜電車の歴史を刻んだ記念碑が建てられている。そこには「水浜電車は浜田〜磯浜間の8.7kmで営業を開始し、昭和5年には、袖塚〜湊間に路線を延長した。

 大正から昭和期の40数年にわたり、市民や海水浴客に親しまれていた水浜電車であったが、自動車交通の発達により、昭和41年にその姿を消した。現在ここに軌道敷の一部が残されている」と記されている。

 水浜線は1918(大正11)年12月、水戸・磯浜間に水浜電車として登場、その後、1944(昭和19)年に湊鐵道、茨城鉄道、袋田温泉自動車とほかの法人及び個人の事業を統合し、茨城交通が誕生している。つまり水浜線が母体となって茨城交通が誕生したということである。

 水浜電車は水戸市、常澄村、大洗町の主要な交通機関としてきわめて大きな役割を果たしてきたが、1957(昭和32)年以降は乗合バスの飛躍的な発達の影響を受けて軌道部門は斜陽化の様相が著しくなった。

 そのため、経営方針を重点的にバスに切り替えこれを拡充するとともに軌道部門の合理化が図られ、水浜電車はその姿を消したのである。

 水浜電車は廃止となり電車線撤退後茨城交通はバス専業事業者となったが、廃線を免れた湊線は第三セクター「ひたちなか海浜鉄道」となって受け継がれた。

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