■「ふたりの天皇」が壮絶に戦っていた
それ以前の旧日産も経営の暗闘が長く続いた歴史がある。有名なのが、1970年代から1980年代にかけての日産は「ふたりの天皇」がいると言われた時代だ。ひとりは当然社長であるが、もうひとりは組合のトップだった。
「塩路一郎」。日産労連会長として日産ばかりか系列部品企業・販売会社を含めた日産圏23万人の労働者を束ねて長く君臨したこの人は、1970年代から1980年代にかけて日産の人事権・管理権を掌握し、経営にも介入して「日産の天皇」「労働貴族」とまで言われた。
日産がライバルのトヨタに離されていったのはこの「労使問題」に起因すると言われた。日産ではこの頃「組合一番、生産二番」で当然、生産効率は落ちることになる。
また、日産が英国に工場進出を決める際に、当時の石原俊社長が記者会見したら、塩地日産労連会長が英国工場進出反対の会見を行ったほどで、当時の日産トップは組合のドンとの対決に大半の力を使ったほどという逸話があるのだ。
今回のグプタ元COOの突然の退社も謎が多く、不透明。日産のこの負のパワーは、いったいどこからきているのだろうか。
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コメント
コメントの使い方豊田とグンマー、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い
ゴンも川又も目先に拘り過ぎた経営者だね。特にゴンはV字回復なんて持ち上げられましたが、不採算部門を切り捨て(最多受けも潰した)一部は豊田自動織機が買収、果ては生産工場まで縮小と。その先どうするのか?答えは海外生産車を輸入で賄うから客離れが起きた。もつと雇用大事にしないと企業発展しませんよ
リーフは早すぎたのと、二代目にもバッテリー冷却を載せなかったのが欠点でしたね。また最近はデザインもコンセプトカーみたいなホイールだったりと迷走気味ですし、もう見なくなりましたがジェット機との競争tvcmも賛否両論ありましたからね。日産の全盛期はキューブとかティーダがあった頃だと思います。
トヨタはド田舎て…。まあ三河と書いてくれただけいいですが(いまだに名古屋県呼びの人もいる)、愛知も一応第三都市ですし、愛知岐阜三重静岡の東海、トヨタ&スズキ&ヤマハで重要なポジションだと感じた新城市民…。
今でこそ豊田市として税収トップクラスですが、当時、まだ拳母市と呼ばれ人口もやっとこ3万人超えでしたが、今は45万人都市です。当時入社したトヨタの偉い人が私の会社にきて話をしてくれましたが、とにかく東大出のような人は少なかったそうです。そして財界から揶揄されたのが三河に田舎侍でしたね
ご指摘通りは浜松から三河地方は自動車産業の都市です。ホンダ、スズキ、ヤマハ、三菱、そしてトヨタと。
確かにトヨタはド田舎。それが幸いしたのか日産は当時から民間でありながら社風は官僚的だとも。1964年発売されたコロナが念願のブルバ-ド超えの生産販売台数を記録。その直後に通産省からトヨタにプリンス自の合併話が持ち込まれたが、競合車種が重なり、表に出てない負債が多すぎて、足を掬われかねないと断るが、当時の川又克二社長は良く調べもせず、合併を急いだ。ここからトヨタとの差が開き始めました。