2014年11月に逝去した自動車評論家、徳大寺 有恒。ベストカーが今あるのも氏の活躍があってこそだが、ここでは2014年の本誌企画「俺と疾れ!!」をご紹介したい。
メルセデスの思い出話や、読者からの質問に答える徳さんの筆致には、おそらく読者の皆さんが普段抱かれているのとはまた違った「徳大寺有恒」の姿が見えてくるのではないだろうか。
(本稿は『ベストカー』2014年1月26日号に掲載したものを再編集したものです/著作権上の観点から質問いただいた方の文面は非掲載とし、それに合わせて適宜修正しています)
■メルツェデスの思い出話
東京モーターショーが90万人以上のお客さんを集めて終わった。自動車業界にとっては明るいニュースであろうと思う。
東京モーターショーを生まれて初めて見たのは高校2年生の時だった。その日はオヤジと出かけ、帰りに日比谷の映画館「スピードに命を賭る男」を見たのでいっそう強く印象に残っている。
カーク・ダグラス主演のこの映画はフェラーリチームを念頭に置いたストーリーでシーザー・ロメロやベラ・ダーヴィが競演した自動車レースものだった。
その少し前、FIAにより、F1、F2、F3とレースはシステマチックになりチャンピオンシップが競われるようになった。
第1回のF1が開催されたのは1950年のことで、第1戦はイギリス、シルバーストーンだった。記念すべき最初のチャンピオンになったのはイタリア人のジュゼッペ・ファリーナでマシンはアルファロメオだった。
翌年の第2回はアルゼンチン人のファン・マヌエル・ファンジオがチャンピオンになり、第3回はアルベルト・アスカリ、第4回はファン・マヌエル・ファンジオが2度目の王座に輝いた。
1955年の第5回大会はメルツェデスチームにスターリング・モスが加わり、大いに盛り上げた。
「無冠の帝王」と呼ばれたこのイギリス人ドライバーはチャンピオンにはなれなかったが、とにかく速く、アルゼンチンの英雄ファン・マヌエル・ファンジオとしのぎを削った。
この年はファン・マヌエル・ファンジオに続くランキング2位だったが、ブラインドコーナーの多いミレ・ミリアではスターリング・モスのほうが速く、1955年には優勝している。
1954年と1955年のレギュレーションはNAの2.5Lエンジンだったが、この時のメルツェデスはW196というマシンにL8と呼ばれる直列4気筒を2つ並べた8気筒エンジンだった。
ご存じのようにF1エンジンは1.5Lになったり3Lになったり、いろいろ変更になり、2014年からは1.6Lターボになっている。
私はメルツェデスのW196というマシンに乗ったことがある。メルツェデスのテストコースのそそり立つバンクで乗った。恐ろしい音と振動のなかをラップした(当時はメルツェデスに行くと比較的いろいろなクルマに乗せてくれた)。
生まれて初めてのF1だ。はじめはゆっくり慎重に、少し慣れると、ちょっぴり飛ばしてみたりした。それ以来、シュツットガルトのジンデルフィンゲンにある開発拠点にはけっこう行ったが、そのたびに面白かった。
ある時はあの長大な600シリーズ(W100)にも乗った。その時は最後にWRC世界チャンピオンのワルデガルドの隣に乗り、彼の神業に酔いしれた。彼が500SLCに乗ってWRCを戦っていた頃である。
当時の本社広報のボスはジャーナリストの経験を持つ方で話も面白く、ドライブも上手だった。いっぽう、その何代かあとの広報のボスは日本向けの右ハンドルに不慣れで一緒に乗っていてスリル満点だった。いずれにせよ、メルツェデスの海外試乗会は面白く、いつもたくさんの思い出をくれた。
試乗はドイツ本国のほか、欧州の全域にわたった。多くの峠を越え多くの国を走った。感心させられたのはそのどれもが、メルツェデスを評価するのに合ったコースだったことだ。
私はいつしかダイムラー・ベンツ、つまりメルツェデスの文化に浸っていた。面白いし感心もした。試乗会はクルマを乗ることにとどまらず、企業文化を伝えるものだと理解した。そしてどんな文化のなか、育まれてきたのかがわかってくる。
翻って日本車はどうだろうと考える。トヨタは日本文化に熱心だが、ホンダはもっと文化を広めてほしい。最近のホンダはどうも「売らんかな」が強すぎる気がする。
もっともこの小さな国に乗用車だけで8つもメーカーがあるのでは、とても文化どころではない気もする。熾烈な競争が日夜繰り広げられている。
今回の東京モーターショーもしかりで、注目すべき技術もあったが、市販を前提にしたモデルに力が入りすぎているように思った。
世界のなかでの東京モーターショーの位置づけというものを考えるともう少し違うものも考えられると思う。
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