かつて、ただ一度だけレースに出場した「日野のGTマシン」があった。その行方を追う。(本稿は「ベストカー」2013年2月10日号に掲載した記事の再録版となります)
PHOTO/安川 肇
■プリンスR380に続き、最初期の国産プロトタイプカー
「日野自動車」と聞いて読者諸兄は何を思い浮かべるだろう。
トラックやバス、少し詳しい方なら羽村工場でトヨタのSUVを生産していることや、かつてジョバンニ・ミケロッティが手がけた美しいデザインの「コンテッサ」を作ったメーカーとして記憶されているかもしれない。
しかしそんなクルマ好きの皆さんにもほとんど知られていないことがある。
それは1966年、日野がGTプロトタイプカーを作製し、たった一度だけ全日本格式のレースに出場したことだ(1967年の日本GPにエントリー。三船敏郎が監督を務めた有名な日野サムライはレースには未出走)。
今回紹介したいのは、その時に撮影された貴重なワンショット。なんともカッコいいマシンではあるまいか。
走っているのはカーナンバー02の日野スポーツプロトタイプ。
ドライブするのは当時の日野のワークスドライバー山西喜三夫選手。この日、出走した2台の日野プロトのうちの1台であった(もう1台は塩沢勝臣選手がドライブ、途中オーバーヒートしてリタイア)。
日野スポーツプロトは富士スピードウェイで開催された「全日本スポーツカー・ドライバー選手権レース’66」に出場し、前述の山西車は3位表彰台を獲得。
本企画ではこの「日野スポーツプロト」を紹介したい。
* * *
昭和41年(1966年)9月に発行された『日野社報』に、この車両作製を指揮した日野自動車第二研究部主査池田陽一課長のインタビューが掲載されている。以下、それを一部抜粋する。
「昭和38年(1963年)に第一回日本GPが鈴鹿サーキットで開催された時に、(日野)自販が中心となってコンテッサ900が出場し、優勝するという非常に優秀な成績をおさめました。しかし翌(昭和)39年の第二回大会では、残念ながら満足すべき成績をあげることができませんでした。
そこで当社としても従来までのツーリング部門の強化はもちろん、他の部門での日野はこれからどうすべきかということになったわけです。そして一応の基本線が決まったのが(昭和)39年の6月か7月だったと思います。
その後(昭和)40年3月には社内展示をすることができるまでになったのですが、40年10月と思いますが国際自動車連盟の国際スポーツ法典が改定になったのです。
その中で最も大きい変更が最低地上高で、従来までの70mmから100mmになったわけです。そこでこれにあわせたクルマができたのが今年の2月です」
このインタビューで日野スポーツプロトが作製された経緯を語っている。
つまり第一回日本GPで期せずしてコンテッサが優勝し、二回目は敗退、そこで捲土重来を期してこの日野スポーツプロトを作製し、サーキットに送り込んだということだ。
結果は当時世界最速の瀧・ポルシェカレラ6と酒井・フォードコブラに次ぐ3位と大変優秀な成績。
上記で引用した社報では、実際にハンドルを握った山西選手も、「振り返ってみれば3位でしたが会心の出来でしたね」、「時間的にはもう少し速く走れましたが、後続との差が開いたので少しペースを落としました」と語るほど、この日野スポーツプロトを絶賛している。
しかし残念ながら、この車両は以後のレースに出場することなく、現在に至る(レース車両も残っていない)。
それは同1966年にトヨタ自動車と業務提携を結び、翌1967年に販売不振でコンテッサを生産中止にしたことや、パブリカ、ハイラックスなどといったトヨタ車の生産を請け負うことになったことと関係があるのかもしれないが、具体的な証言はない。
ただ今はこの写真とリザルト表(※画像ギャラリーにて掲載)だけが、在りし日の日野自動車の技術力の高さを見せる手立てとなっている。
【画像ギャラリー】“幻のGTマシン”日野プロト、コンテッサをギャラリーで見る(5枚)画像ギャラリー
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