「音羽の不夜城」と呼ばれ、24時間灯りが消えることのなかったベストカー編集部が入る第二音羽ビルが老朽化、耐震不適格によりいよいよ取り壊しとなることが決定。45年弱、1000冊を超えるベストカーを生み出してきた「音羽の不夜城」の思い出を振り返ろう!
※本稿は2024年3月のものです
文/ベストカー編集部、写真/ベストカー編集部
初出:『ベストカー』2024年4月10日号
■創刊から2年後、現在の場所に定住
「音羽の不夜城」とはよく言ったもので、それこそ2000年代前半頃までは24時間灯りが消えることなく、誰かしらが編集部に居残って仕事をしていた。
最近ではベストカー編集部も働き方改革を推進して、不夜城ではなくなったけれど、それでも昭和の雑誌編集部の雰囲気を色濃く残すベストカー編集部は「不夜城」の面影を今に伝える生き証人的文化遺産ともいえる異空間。
そんなベストカー編集部の精神的拠点ともいえる第二音羽ビルだが、新築から45年を迎えようとする今、耐震基準に対応させるには多額の費用が掛かることもあり、取り壊されることが決定。ベストカー編集部は近くのビルに移転することとなったのでありました。
第二音羽ビルが竣工したのは1979年8月。その2カ月後にはベストカー編集部が入居した。
創刊から最初の2年間は「神田川近くのボロビルの一室」(当時を知る先輩の証言)に編集部があったというが、現在地に移転して44年4カ月、実に1000冊を超えるベストカー本誌を生み出してきたのが、「音羽の不夜城」こと、第二音羽ビルだったのだ。
■生き証人・ウメキが語るベストカー編集部の歴史
ちなみにこの原稿を書いている編集委員ウメキは1989年6月からこのビルに居ついて仕事をしているので、34年以上の歴史を見てきたことになる。今は5階に編集部があるんだけど、1989年当時は6階にあって、1991年頃に5階に移ったのだ。
1990年代前半までは徳大寺有恒氏、黒沢元治氏、竹平素信氏が編集部に詰めて原稿を書くなんてことがあって、専用の部屋が用意されていたのを思い出した。
1990年代頃は、幾度となく仮眠室を作る話が出たのだが、泊まり勤務を推奨するのはいかがなものかとの反対意見が出て、結局我々編集部員はソファに倒れ込むように仮眠をするのが常だった。
いや、ソファを使えるのは先輩たちで、新人だったウメキは机に突っ伏して寝落ちするか、床に新聞を敷いて仮眠するなんて日々だった。
そう言えば、2011年3月11日、東日本大震災を経験したのも第二音羽ビル5階の編集部だった。ギシギシ軋む音がして、ビルが折れて倒壊するかと恐怖を感じたものだが持ちこたえてくれた。
講談社ビーシー、旧社名三推社の歴代社員たちの熱き魂と血と汗と涙と、いろんなものがしみこんだ第二音羽ビル。思い出が走馬灯のようによみがえるのでありました。ホント、いろんなこと、あったなぁ……。
■不夜城の“ヌシ”だった先輩の言葉
●国沢光宏先輩
正真正銘の不夜城だったんすよ! 私が入社した1981年当時は、今なら「超」を100個付けたくなるようなブラック企業! 締め切り近づくと、当然ながら家になんか帰れず。3食+夜食は外食。明るくなった頃、睡魔に負けて倒れ込むのは寝返りすると落ちる椅子を並べたベッド(いやベッドですらない)。
お風呂は第二音羽ビル前の熱海湯。そして月月火水木金金ざます。この修行を積めばたいていのことに耐えられる。皆さんもぜひ!?
●大井貴之先輩
第二音羽ビルを初めて訪ねたのは1981年。谷田部テストにカメラマンとして参加した時だった。
クルマはセドリックターボ(430型)が登場したての新車だった頃。第二音羽ビルもピッカピカ。大井貴之もピッカピカ。それから約8年間、写真も撮る編集部員として強制労働の日々。
数年後にはベストモータリング(ビデオ)のスタッフとして再び第二音羽ビルへ。多分、間違いなく第二音羽ビルでの睡眠時間はオレがNo.1。
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