日産のイヴァン・エスピノーサ社長がメディアに向けて説明会を実施した。内容は追浜工場の閉鎖についての補足説明となるが、そのなかで語られたイヴァン社長の本意とはいったいどこにあるのか? 自動車専門メディアらしい質問をしてみた。
文/写真:ベストカーWeb編集部
追浜は近代日産を支えた名工場である
日産追浜工場の操業開始は1961年。日産の黄金期を底支えしてきた工場でもあり、日産の困難な時期も超えてきた工場でもある。追浜工場がある神奈川県横須賀市については地域への影響などを訴えるむきもあるが、工場で働く従業員の皆さんの方が心配を多く抱えているだろう。
日産は事前にプレスリリースで2027年度までの操業は継続、衝突試験場や実験施設でもある「グランドライブ」、埠頭などについてはその後も日産が活用すると発表している。メディア向けに開催されたエスピノーサ社長の説明会では今後の工場については「売却など色々な可能性がある」としつつも、具体的な協業などについては明言を避けた。
しかし実際の雇用については大きな転換点を迎えるのは大きな事実であり、今後は組合との協議が進んでいくという。国内工場の稼働率は60%程度になっており、一部報道で20%にまで稼働率が低減していたという追浜工場の閉鎖というのは日産にとっても致し方ないところだ。
「一番やりたくない決断だった」
エスピノーサ社長は説明会にて「これ以上の国内工場の閉鎖はない」ことも明らかにした。栃木や九州を拠点にして日産車の生産は続いていく。
約25年前の1999年にカルロス・ゴーンが村山工場の閉鎖を決めた。その際もかなり大きな動揺が広がったのだが、追浜工場は村山工場より1年古い1961年創業。スカイラインなど名車を生んできた村山工場と比較すればやや地味にも映る追浜工場だが、P10プリメーラ、キューブなどの人気車種も生産してきた。
エスピノーサ社長に質問をしてみた。まずはエスピノーサ社長が語った追浜工場の閉鎖は「苦渋の決断」という点。これについてエスピノーサ社長にとって改めてP10プリメーラなど名車を生産した追浜工場や、製品との思い出、エピソードを聞いてみた。
「追浜は何十回も足を運んだ工場ですし、まさに日産のアイコンなのです。歴史的な拠点ですしね。なのでこの判断についてはキャリアでも一番の苦渋の決断でした。
そして本日この残念な決断を従業員には伝えました。リーダーとしてこんなことは最もやりたくない仕事。そして同時に、私がやらなければならない仕事です。企業を持続するための決断になります。最後になりますが、従業員に深くお詫びしたいと思います」。
リーダーというのは時に非情にも思える大きな厳しい決断を求められるのは常だが、クルマを愛するエスピノーサ社長の決断は単にビジネスライクな決して無情なものではなかったと感じた。
追浜から日産車の生産がなくなること。自動車メディアとしても悲しみを覚える結末は呆気なくやってきたのだが、新たな日産の新しい一歩の礎となるべく2027年度までの生産をしっかり歩んでほしい。
追浜工場に関わる従業員の皆さんのプライド、そして日産への愛を無駄にせずに、エスピノーサ社長にはそれを今後の日産に生かしていく義務がある。








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