1980年9月21日、後に日本のロック史に名を刻むバンドがレコードデビューした。「横浜銀蝿」は、嵐(65)、翔(62)、Johnny(62)、TAKU(60)のメンバー全員がサングラスに黒の革ジャン、ドカン姿。不良の危険な薫りを全面に漂わせた4人が奏でる熱いサウンドと時代の気分をとらえた歌詞は、当時の若者たちを虜にし、社会現象を巻き起こす。活動期間はわずか3年3カ月だったが、40周年にあたる2020年は「横浜銀蝿40th(フォーティース)」としてオリジナルメンバーで復活を果たした。
新型コロナウイルス禍の窮屈な世の中を歌った『ツッパリHigh School Rock‘n Roll(在宅自粛編)』が大きな話題を呼び、40周年記念日となる9月21日には無観客配信ライブ「40周年記念ファンクラブイベント♯銀蝿記念日 昭和火の玉ボーイ」が、翌22日には「TAKU 還暦REBORN! 生誕祭ライブ」が開催され、復活を待ち望んだファンを熱狂させた。そして2日後の24日にはニューシングル『昭和火の玉ボーイ』もリリース。2021年春からはコロナで順延された全国ツアー「横浜銀蝿40th コンサートツアー2020~It’s Only Rock’n Roll集会 完全復活編 Johnny All Right!~」も予定されている。
横浜銀蝿は、そもそも「単なる車好きの集まり(嵐)」(『ぶっちぎり最終章』講談社刊より)だった。40周年を機に、メンバーたちはベストカー編集部の取材にそれぞれ応じ、クルマにかけてきた情熱を語った。
翔(前編・後編)、Johnny(前編・後編)に続き、年末2回に分けてお届けするTAKUのインタビュー前編では、クルマを早く運転したかったという幼少期から憧れのスポーツカーを手に入れてドライブに出かけた熱い青年期を振り返る。
文:堀晃和/メイン写真:中里慎一郎
■初めての“クルマ”は足こぎ式のゴーカート 実は大きな心配事が…
メンバー4人の中で恐らく最も早く、クルマを強く意識していたのはTAKUだろう。背景には、母方の祖父の影響があった。祖父は会社を経営しており、経済的に余裕があったため、新車を何台も乗り継ぐようないわゆるカーマニアだった。1回目の車検が近づくと、下取りに出し、新しいクルマに買い換えていたという。
経営者といえば、運転手付きのクルマの後部座席でくつろぐ姿をイメージするが、祖父は自らハンドルを握って出社した。幼稚園に通う前の幼いTAKUも同乗して会社へ。そして1日過ごし、帰宅する時も祖父の助手席に。その行き帰りの道中、窓の外を走る他のクルマを目で追った。
「『グロリアスーパー6(シックス)だ!』『あれは、新しく出たコロナマークIIだ』とか、クルマの名前を覚えて、全部言えたんですよ。とにかくクルマに乗って行くのが楽しくて」
そんな祖父の背中を間近で見て育ったことが、大きかった。次第にクルマが大好きになった。「とにかく、早く免許を取って運転したくて、したくて」
思いは早くも通じる。「足こぎ式のゴーカートを買ってもらったんです」
その“愛車”に乗り込み、ドライブに出かけた先は、東京都内の自宅近くにある商店街。買い物客でにぎわう通りに乗り入れ、人込みを縫って進んで運転技術を磨いたという。
実は、その練習中に密かな悩みを抱えていた。それは…。「オレのゴーカートはハンドルが真ん中にあるわけ。大人の乗るクルマは、左か右でしょ。オレ、大丈夫かな、ちゃんと運転できるのかなって。これ、まじめに心配してた(笑)。それぐらい運転するのが大好きだったのね」
運転免許を取るまでにはまだ10年以上もある。とにかく待ち遠しかった。将来に乗るクルマを夢見て、車内の装飾品も集めていたという。
「ノベルティグッズの温度計とか、取っておいたんです。クルマのメーターに似てるようにオレには見えたから。クルマが手に入ったら取り付けようって」。頭にあったのはスポーツカーだ。「メーターを増やしたくてね」
祖父は小学生の時に亡くなったが、所有車で最も印象に残っていたのが黄色のマークIIだった。屋根が革張り。幼いTAKUの目には「格好いいスポーツカー」と映った。
子供のころは、スポーツカーにしか興味がなかった。「トヨタ2000GTとフェアレディ240Z以外は、眼中になかったんです。ほかは、考えもしなかった」
ちょうどその頃、社会見学で、横須賀市にある日産自動車の追浜工場に行く機会があった。Zが止まっていた。わくわくした。もらってきたカタログを眺めて、Zに乗ることを夢想した。
「2000GTはもう売ってなかったので、乗るのはZかなぁって。そう憧れながら小学生生活を送っていましたね」
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