時代に翻弄されたマツダ5チャンネル 痛恨の失敗とバブルの真相とは

時代に翻弄された「マツダ5チャンネル」。その失敗とバブル経済の真相とは?

 かつて「モノを作れば売れる」時代があった。1986年頃に始まるバブル経済を背景に、国内の各自動車メーカーは販売台数を伸ばすため、ディーラーの多チャンネル化を推し進めた。しかし、やがてバブルが崩壊し、特にマツダはその影響を強く受け、経営危機に陥ることになる。今回は、時代に翻弄された当時のマツダの状況と、その背景となった経済のマクロ的な流れをご紹介したい。

文/鈴木喜生 写真/マツダ

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トヨタ、日産、マツダが5チャンネル体制へ

 1980年代、空前の好景気に沸く日本では、各自動車メーカーは販売網の多チャンネル化を進めていった。トヨタは「トヨタ店」「トヨペット店」「カローラ店」「オート店」「ビスタ店」という5チャンネルの販売体制をとり、日産をはじめとした他社も同様の販売戦略に舵を切ったのだ。モデルごとに販売店を分けることで販売網を強化し、販売台数を伸ばそうとしたのだ。

 この流れのなかでマツダは1989年、それまでの販売チャンネルに新たな2チャンネルを加え、以下のような5チャンネル体制を構築した。

①「マツダ店」

ファミリアなどの小型車から高級車までを幅広く扱うメインチャンネル

時代に翻弄された「マツダ5チャンネル」。その失敗とバブル経済の真相とは?
マツダ店は、全チャンネルのなかで最も長い歴史を持つチャンネル。1989年にユーノスが誕生するまで、マツダ系、マツダオート系、マツダモータース系の3系列で展開していた

②「アンフィニ店」

RX-7やMS-9などのスポーツカーを主としたチャンネル

時代に翻弄された「マツダ5チャンネル」。その失敗とバブル経済の真相とは?
1996年に「マツダアンフィニ店」へと名称が変更に。同時にユーノス店はマツダアンフィニ店に統合されるか、フォード店へと変更となり、消滅した

③「ユーノス店」

ロードスター、ユーノスコスモを扱う人気チャンネル

時代に翻弄されたマツダ5チャンネル 痛恨の失敗とバブルの真相とは
空前の大ヒット車「ユーノスロードスター」の販売店。他に、ユーノスコスモ、ユーノス500など、ユーノスの名を冠したクルマが販売された
時代に翻弄された「マツダ5チャンネル」。その失敗とバブル経済の真相とは?
ユーノス店では実は、シトロエン車も販売されていた

④「オートザム店」

軽自動車、小型車など主としたチャンネル。正規代理店としてフィアットのランチアなども扱う

時代に翻弄されたマツダ5チャンネル 痛恨の失敗とバブルの真相とは
1989年に営業が開始されたオートザム店はキャロルなどの軽自動車をメインに販売。デミオ、ほかに一部の店舗では、ファミリアも販売していた
時代に翻弄された「マツダ5チャンネル」。その失敗とバブル経済の真相とは?
ガルウイングという斬新なデザインで注目されたオートザム AZ-1は注目を浴びたものの、販売台数は低迷した……

⑤「オートラマ店」

正規代理店としてフォード車を専用に販売するチャンネル。フェスティバ、テルスターなどを扱う

時代に翻弄されたマツダ5チャンネル 痛恨の失敗とバブルの真相とは
初のオートラマ店専売車、フェスティバのほか、エクスプローラーなどのフォード車を販売。1994年には、フォード店に名称が変更された

 しかし、モデルの増加によって開発費が膨らみ、販売チャンネルの乱立はエリア内での販売競争を激化させ、その余波は同社内ブランド間における顧客の獲得合戦にさえ発展。その結果、悪しき価格競争さえ発生することになった。

 そして1990年代初頭、バブルが崩壊し、それがトリガーとなって、マツダは経営危機に陥る。その結果1996年、マツダはフォードに対して株式の第三者割当増資(特定の第三者に新株を引き受ける権利を与えて増資すること)を実施し、その傘下に入ることになったのだ。

なぜ各社は他チャンネル化に走ったのか?

 ではなぜこの時代、各社は多チャンネル化に走ったのだろう? その遠因となるのは、1985年に先進五ヵ国間で締結された「プラザ合意」だ。レーガン時代のアメリカは、景気が停滞しているのに物価が上昇する「スタグフレーション」に陥っていて、不景気にあえぎ、大量の失業者を抱えていた。それを助長したのが、安くて質の高い日本製のクルマや家電だ。この頃、日米は「日米貿易摩擦」の最中にあった。

 これを是正するためにレーガン大統領は、各国代表を「プラザ会議」に招聘した。ポンド、マルク、フラン、円などの主要通貨を意図的に高くして、極端に高くなったドルを下落させようとしたのだ。主たるターゲットは経済大国ニッポンの「円」。当時1ドル240円で推移していた円は、プラザ合意が締結された翌日には20円の円高になり、そのまま急速な円高が進むことになる。これによってアメリカの貿易赤字に歯止めがかかり、米国内の景気は回復したが、逆に日本経済には不穏な空気が漂いはじめた。

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