■「たった1psでも絞り出したくなる、それが鈴鹿という特別な舞台」
現在ホンダカーズ野崎にて店長を務める松本正美さん。「F1おじさん」とも呼ばれるほど多くのお客さんに愛される店長だが、実はかつて無限でF1エンジンを設計していた人( 濃い解説が人気のYouTubeも人気です。)。当時を振り返ってもらいました。
私はF1のエンジン設計をしたくて無限に入社しました。それ以外に目的はなくて、意志は非常に固かったと我ながら思いますよ。
とは言っても、当時はまだ無限が正式にF1参戦を発表していない時代。入社面接で「無限がF1に参戦しないのであればホンダに行きたいんです」と役員の前で本音をズバッと言ってしまったのです(笑)。
その熱意を汲んでくれたこともあり、無限に入社してF1関係の部署に配属されました。
ただ最初に配属されたのは熱望していたエンジン設計ではなく車体部門。3年頑張ったらエンジン設計に、というのが会社との約束でした。無限がF1マシンを世界に送り出そうという過程でしたから、この時期は本当に忙しくて。
毎月毎月、鈴鹿へ行っては課題を見つけて工場で修正し、また翌月も鈴鹿にいって……、という日々を過ごしていました。エンジン設計に異動した後も鈴鹿に通い日本グランプリも行きましたよ。
当時はV8、V10、V12と種類の異なるエンジンが混走していましたね。体躯までズーンと響くエンジンのサウンドに、1コーナーのスタンドに行く間でも胸が高鳴るのを隠せませんでした。
私も含めて無限はたった5人でエンジン設計をしていたのですが、いつかここ、鈴鹿で頂点をというのが共通の思いでした。
鈴鹿はやはり聖地であり、何より無限にとっても私にとっても母国グランプリですからね。
無限は1995年に初表彰台を成し遂げて着実に力をつけてきていたのですが、どうも日本グランプリ前になるとメカニックはソワソワと慌ただしく動き始めるんですよ。
本来バランス取りが不要のパーツも研磨して重量を合わせたり、他のグランプリではやっていない作業もたくさんしていました。エンジンの設計担当としてはそこまでの加工はほとんど無意味なことと分かっていたんです。
でも、その熱意を目の当たりにしたら意味がないとは言えなくて(笑)。私もバッフルプレートを鈴鹿用に新規で作りましたよ。1000分の1秒でもマシンを速く走らせたいという思いはみんなが当然持っていましたから。
まあ、そんな重箱の隅を突っついた改善をしても、得られる馬力はたった1馬力程度なんですけどね。それでもやり残したことがないというくらい日本グランプリへの対策をエンジニアはしていました。
今になって思えばそれが日本グランプリへの思い、そしてエンジニアとしての誇りだったのかもしれません。
現代のF1エンジンは私が開発していた当時とは規則も規模も一変しました。すでにエンジンではなく「PU」とか「ICE」とか呼ばれていますしね。
しかし鈴鹿で母国グランプリを迎えるホンダのエンジニアの皆さんはあの頃の我々と同じ想いでエンジンを組んでいると思います。
陰で支えるスタッフたちに思いを馳せて観戦すると、日本グランプリの新たな魅力を発見ができるかもしれません。
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