「ヨタハチ」の愛称でクルマ好きに広く親しまれている日本のライトウエイト・スポーツカーは、先ごろ「生誕55周年」のイヴェントが開かれたように、いまから60年近く前につくられた。
それでもいまだ数多くは綺麗な状態で残され、愛好されているというのだからすごい。まさしく趣味のクルマの代表的ひとつ、ということができよう。
それにしても、いまから60年前、こんなクルマが発想されじっさいに生産されたことが素晴しい。わが国の自動車の発展期の大きな足跡のひとつ、ということができる一台だ。
文/写真:いのうえ・こーいち(トップ写真/TOYOTA)
■パブリカ・スポーツとして発表
そもそもは1962年秋の第9回「全日本自動車ショウ」である。東京モーター・ショウの前身であるそのショウ、たとえばホンダS360、S500が話題をさらったことで知られるのだが、それとともにトヨタの2台も熱い視線を浴びたのであった。それは「パブリカ・スポーツ」と「パブリカ・オープン」。
後者はのちにパブリカ・コンヴァーティブルとして具現化するのだが、まったく新しいボディをまとった「パブリカ・スポーツ」の方はショウモデルだけで終わってしまう、と思われていた。
なにしろ今までに見たこともないような軽飛行機を思わせるスタイリング、ドアがなく、ルーフ一体のキャノピイを後方にずらして乗降するという仕掛けなど、いかにもショウモデルといった雰囲気。
それはパブリカ用のエンジンなどコンポーネンツを使い、航空機の技術などを採り入れてつくられた軽量スポーツカーの提案、というものであった。
パブリカはその前年、1961年に発売された日本の「国民車」というような小型車。わが国にクルマが一般に広がる前、普及するのひとつのきっかけとなったクルマだ。
ファンによって冷却される空冷の水平対向2気筒OHV697ccというエンジンを搭載し、28PSのパワー、4段のコラム・シフトで軽量ボディを最高速110km/hを謳った。意欲的ではあったものの、まだまだクルマは高嶺の花で、いまひとつ期待ほど売行きは伸びていなかった。
パブリカ・スポーツのショウ出展はパブリカ全体のイメージアップを図ってのことでもあった。
しかしショウでの注目度が高かったこと、それにホンダ「エス」ともどもスポーツカー人気の機運があったことなどから、生産化が進められ、1965年、トヨタ・スポーツ800の名で発売されたのだった。もちろん、多くのクルマ好きが大歓迎したのはいうまでもない。
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