不安と怒りが世界中を覆っているロシアのプーチン大統領のウクライナ侵攻ではないが、今日のように、時代の「危機」「急変」に際しては、「栄枯盛衰」という言葉がふと頭をよぎる。また、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の場面にある源平合戦を描いた『平家物語』の冒頭の句にも「盛者必衰」という熟語がでてくる。
栄えていたものが勢いを失ったり、逆に衰えていたものが勢いを取り戻したりするという、この世の無常を表わしているが、時代は移り、世の中が変わっても、この道理は変わらないものである。
構造改革に取り組む三菱自動車が、岐阜県坂祝町にある子会社のパジェロ製造の完成車工場を、製紙業界大手の大王製紙に売却するという報道が流れて、商売柄、企業の「栄枯盛衰」には、飽き飽きしながらも、何とも言えない複雑な心境になった。
文/福田俊之、写真/三菱自動車、パジェロ製造、トヨタ、ホンダ
■「虎の子」だったパジェロ製造工場を大王製紙に売却
大王製紙の発表によれば、三菱自動車と売買契約を締結したのは今年3月18日。約15万平方mの敷地と工場などの建物を2023年1月に取得する予定で、当初は工場の建屋は壊さず、物流倉庫として使用し、2024年以降に新工場を立ち上げる計画という。
取引価格については、守秘義務契約により非公表としているが、一部の報道では40億円前後とも伝えている。異業種の両社は資本や取引関係はなかったが、岐阜県や地元の坂祝町は地域の雇用を維持するため、製造業への売却を三菱自動車に要望していたところ、大王製紙側は「パジェロ製造の工場は、当社の可児工場から約5km と近接しており、シナジーが大いに見込める」と判断して買収を決めたそうだ。
過去に経営不振の日産自動車が生き残りを賭けて座間工場(神奈川県)と村山工場(東京都)を処分したが、自動車工場の跡地は土壌汚染などの環境問題で、宅地や田畑として再利用するのは難しく、ショッピングセンターや公園などの施設になっている。そうした例からもわかるように、県や町は賢明な選択だったと言えるだろう。
■パジェロと運命を共にした歴史
パジェロ製造は、愛知県にある岡崎製作所と岡山県の水島製作所とともに、ひと昔前まで三菱自動車の屋台骨を支えていた「虎の子」の国内生産拠点だった。創業は第二次世界大戦中の1943年で、航空機部品を製造する東洋航機が前身だが、三菱重工の自動車事業部から1975年に独立した三菱自動車の出資後は、1982年からレジャー用多目的車(RV)の「パジェロ」などの生産を開始した。
パジェロといえば、一世を風靡した「ギャラン」や「ミラージュ」などとともに、かつての三菱自動車の看板車種で、昭和生まれのシニア世代にはなじみ深い。特に、RVブームの火付け役となった1990年代には、世界一過酷といわれる「パリ・ダカ」(現・ダカールラリー)では、日本人ドライバーとして篠塚建次郎氏が初優勝を遂げるなど、オフロードに強い「三菱パジェロ」として、世界にその名を轟かせた。
当時の中村裕一社長は、弟分のモデルとして軽サイズの4WD(四輪駆動)の「パジェロミニ」まで投入するなどしてヒットさせた。世間一般に企業のトップなどが同業他社を名指しすることは 「ご法度」とされているが、中村氏は勢い余って「(当時2位の)日産のテールランプが見えてきた」などと豪語し、わき目も振らず拡大路線を突っ走っていたことを思い出す。
だが、好事魔多しで、その後は総会屋への利益供与事件や米国法人のセクハラ訴訟、さらに度重なるリコール隠し問題などの不祥事が発覚して経営危機に陥った。
そのパジェロ製造もブームが去ると稼働率は落ち込み、2020年7月に発表した「聖域なき構造改革」ではリストラ計画の大きな「目玉」として余剰人員の削減と工場閉鎖などが決まり、昨年8月末ですべての生産を終えていた。思えば、パジェロ人気にあぐらをかいたせいで、それが20年以上にわたり暗闇のなかを迷走する「破滅への疾走」だったことは否定できない。
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