開発者の執念!?? アイデアを会社に認めさせるための唯一の方法… 3代目シビック開発奮闘記

開発者の執念!?? アイデアを会社に認めさせるための唯一の方法… 3代目シビック開発奮闘記

 日本を代表する大衆車として(特に成長期に)国産車市場の中心で存在感を発揮し続けてきた「シビック」。そのシビックの画期的な転換である3代目で開発主査を務めた伊藤博之氏が、本誌のインタビューに答えてくれた(「ツインリンクもてぎ」にて実施された歴代シビック一気乗り試乗会にて実施)。今年、初代登場から五十周年を迎えるシビックは、どのような経緯で誕生したのか。当時の本田技研工業の開発現場の実情、伝説の経営者である故本田宗一郎氏の思い出とともに振り返っていただきました。

文/諸星陽一(聞き手)、写真/HONDA、諸星陽一

【画像ギャラリー】ホンダの本流であり続けたシビックの初代から6代目まで開発に携わった伊藤氏と開発責任者を務めた三代目シビックの雄姿(16枚)画像ギャラリー

■3代目を作るときは「会社のいうことをきかないぞ」と

伊藤さんとシビックの関係を教えてください。

「ボクは初代シビックから開発に関わってきました。初代シビックが登場したのは1972年なので、もう50年なのですね。その年に結婚しているのですが、初代シビックの開発の仕上げで、荒川のテストコースとその頃に開通した関越自動車道(当時は有料の高速道路ではなく、東京川崎道路という名のバイパス)に連日通っていて、新婚旅行も行きませんでした。当時のホンダは、今でいうブラック企業ですよ。」

ホンダの伝説の開発者のひとり、初代シビックから6代目シビックまで開発に携わった伊藤博之氏(78)
ホンダの伝説の開発者のひとり、初代シビックから6代目シビックまで開発に携わった伊藤博之氏(78)

「2代目シビックを開発していたときはすごい円高で、久米さん(久米是志氏、当時の本田技術研究所社長)に『新しいデザインはダメ、新しいエンジンもダメ』と、しっかり財布の紐を締め付けられていたもんだから、初代のCVCCエンジンをなんとかごまかして使い続けて、それほど新しい技術やデザインを盛り込まず、円高を乗り切るクルマを作りました。まあ、ストレスがたまりました。そういう経験があったものだから、3代目を作るときは会社の言うこと聞かないぞ、なんとか新しいものを作りたいという気持ちでいっぱいでした。」

そうしてあの3代目であるワンダーシビックが生まれるのですね。

「3代目の開発目標のひとつに“50マイルカー(※1)”を作ろうというのがありました。」
(※1:ガソリン1ガロン(約3.8L)で50マイル(約80.5km)走れる燃費、つまり燃費が約21.2km/Lのクルマ)

伊藤氏が開発責任者を務めた3代目シビック。「ワンダーシビック」という二つ名を持つ。1983年9月発表発売。80年代を代表する国産車のひとつ
伊藤氏が開発責任者を務めた3代目シビック。「ワンダーシビック」という二つ名を持つ。1983年9月発表発売。80年代を代表する国産車のひとつ

「3代目シビックの前にシティを作っているのですが、シティに搭載したエンジンをベースに開発を進めて、CR-X(※2)に搭載して、空力をよくするためにボンネットを低くする。そのためにコイル式ストラットでなくトーションバーストラットを採用して、50マイルカーを成功させました。」
(※2:日本ではバラードスポーツCR-Xの名で発売されたが、アメリカではシビックCR-Xであった)

「それと同時に3ドア、5ドア、シャトルの3つのボディを作りました。3ドアはなんとかフラッシュサーフェスを実現したいということで、ドアをプレスのフルドアにして、リヤをコーダトロンカ(リヤをすっぱり切り落としたデザイン)としたクルマを作って、これをベースに4ドアに発展。さらに大きなシャトルも作って、世の中になんとか新しい息吹を出したいという気持ちでやりました。樹脂塗装を新たに用いたりと、今までにないクルマ作りをした。一般的に言われるように、CR-X、3ドア、4ドアでホイールベースを変更して。シビックルネッサンスといって、新しいことをものにしようとしたのです。」

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