「もう、あれから12年が経つのか」、それは多くの日本人が抱く感慨だと思う。
東日本大震災を知らない若い人たちも増えてきたが、犠牲となった尊い命に報いるためにも、東日本大震災の記憶と教訓は語り継がれるべきことだと思う。
東日本大震災に際しては、物流関連の業務に従事している多くの人々が救援や復興を支えてきたが、トラックドライバーの長野潤一氏もその一人。
長野氏が被災地のど真ん中で見聞した物流にまつわるリアルな出来事は、これからも貴重な教訓となろう。12年前に立ち返って再掲する。
文/長野潤一、写真/長野潤一・フルロード編集部・三菱ふそう
*2011年8月発行トラックマガジン「フルロード」第4号より
初動体制(3月〜4月上旬)「このままでは物資が足りない」
震災から、すでに5カ月が経とうとしている。震災の5日後、初めて盛岡に向かったときは気温マイナス3℃、積雪20センチ、東北道は吹雪で前が見えなかった。
避難所の寒さを想像した。今、東京では毎日35℃の暑さが続き、東北でも30℃を越える。被災地のニーズも変わった。
物流は何をしてきたのか、これから何ができるのか? この5カ月を振り返ってみる。
東北に向かったのは3月16日の夕方だった。東京・丸の内にある大手企業からの依頼で、水、食料、毛布などを積み盛岡へ3t車を走らせた。
震災後すでに5日経っており、少し遅い気もするが、政府が何もしないのを見て行動をとったのだろう。
地震発生直後にテレビで枝野官房長官が「日本の全知能を使って対処する」と会見した。俺は、政府が日本中にある物資・機材を利用し、東北をバックアップすると期待した。
つまり、民間のトラックを大量にチャーターし、食品会社に要請してカップ麺や飲料水を確保、生活用水は食品用大型タンクローリで輸送する。
全国のリース会社にあるプレハブ、発電機、重機を東北に集結、内陸のホテルや保養所を借り切り、大型バスで避難者を救出。オフロードバイク、ヘリ、客船、陸海空のあらゆる乗り物を投入するものと……。
しかし、一部は実行されたが、期待は裏切られた。
震災後の東北道、常磐道の復旧は驚異的に速かった。まだ段差や路肩の陥没があったものの、緊急車両の専用輸送路は確保されていた。
だが、何かがおかしい。普段よりトラックが少ないのだ。走行データを見ると、東北道では通常2~3万台/日が、約千台/日に大きく落ち込んでいた。
通行するには警察が発行する「緊急通行車両確認標章」が必要だが、通常の食品の輸送は対象外と誤解したり、帰りの燃料不足を心配して出発を見合わせる業者が多かったからだ。
盛岡の街は意外に平穏だったが、スーパー、コンビニ、ガソリンスタンドはほとんど閉まっていた。物流のストップにより、東北では都市部の市民生活に必要な物資までが不足した。
津波被災地への救援物資輸送は2万人から10万人に増強された自衛隊が担っていた。しかし、上空からの投下が行われなかったことなどもあり、これも初動では充分でなかった。
いっぽう関東地方でも影響は出た。東北道、常磐道、外環道、首都高の東側などが緊急交通道路として封鎖され、電車も運休していたため、一般道は大渋滞した。
国交省は警察庁に通行規制の緩和を申し入れるべきだったが、タテワリ行政の弊害が出たのだろう。