この距離で20ミリを撃てば必ず当たる
私が土方さんと初めて会ったのは、2005年1月のこと。当時83歳の土方さんは、その前年、光人社(現・潮書房光人新社)から『海軍予備学生零戦空戦記』と題する本を出版したばかりだったが、たまたま私が同社から上梓していた零戦搭乗員の証言集『零戦最後の証言』を読み、この著者にぜひ会いたいと、共通の担当編集者である坂梨誠司氏を通じてコンタクトをとってくれたのだ。
「私の人生を要約すれば、海軍での2年間に集約される。それほど重要で密度の濃い期間でした。それから後は、お釣りの人生だと思うんですよ」
と、土方さんは言った。零戦搭乗員として戦った戦時中の体験から、学校教育の話、趣味のカメラやオーディオ、車の話まで、話題は尽きることがなく、それからもずっと、何人かの元零戦パイロットを交えたりしながら、毎月のように会って話す機会が続いた。
実は私も、1989年、R32スカイラインが発売されてすぐに、赤いGTS(ツインカムの自然吸気エンジン搭載)を買い、6年ほど乗っていたことがある。私のつたない車遍歴のなかでも、20代後半をともにしたスカイラインはもっとも運転して楽しく、好きなクルマだった。偶然だが、クルマの好みが一致していたのだ。
土方さんは、年に一度、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校に講演に行ったり、ときどき戦中を舞台にしたドラマや映画の演技指導に通ったりもしていたが、そんなときは必ず私を伴って、帰りの運転を任せてくれるようにもなった。
高齢運転手による悲惨な事故が相次いで報じられる昨今だが、土方さんは80歳を越えても運転がうまかった。常磐道を走る車中でのことだった。前を走る車に目を据えて、
「この距離で20ミリ(機銃)を撃てば必ず当たるんだよ」
と言う。
「いつもそんなこと考えながら運転なさってるんですか? 怖いなあ」
などと言いながら、楽しいドライブだった。
「でも、スピード違反で捕まったことはないんですか?」
「いや、戦闘機乗りは『見張り』が命。覆面パトカーに捕まるようならとっくにグラマン(F6F)に墜とされてるよ」
後を引き受けてくれませんか
だが、そんな土方さんにも、運転をあきらめざるを得なくなる日がやってくる。ヘビースモーカーだった土方さんは、私と会う前から肺気腫を患っていて、急いで歩いたり階段を昇ったりすると息切れがしていた。その症状が日毎に、目に見えて悪化していったのだ。やがて酸素吸入が欠かせない状態になったが、それでも、
「こうやって酸素マスクをつけていると、零戦の高高度飛行みたいで懐かしい」
と強がりを言いながら、酸素吸入の合間に煙草をふかしていた。
2010年5月、東京・原宿の水交会(旧海軍、海上自衛隊関係者の親睦施設)で、NPO法人「零戦の会」が主催した「土方敏夫さんを囲む会」で、「零戦vs.グラマンF6F」と題し、35名の聴衆を前に講演をしたのが、土方さんが公の場に出た最後になった。
その年、ついに車の運転にドクターストップがかかる。88歳になった土方さんは私に、
「無理にとは言わないけど、せっかくここまで20年、大事に乗ってきたから、廃車にするのはしのびない。後を引き受けてくれませんか」
と言った。私はこのとき、同じ1990年式のいすゞピアッツァ ハンドリング・バイ・ロータスに乗っていて、こちらにも愛着があったが、土方さんの愛車を引き継ぐとなれば異存はなく、ピアッツァを廃車にして、土方さんのスカイラインを迎え入れることにした。
妻・兼子さんによると、土方さんはクルマへの思いが断ちがたく、私が受け取りにくる前の日はずっと運転席に座り、エンジンを空吹かししたりして別れを惜しんでいたという。
名義変更にあたって、土方さんが購入した日産プリンス浜田山店で点検整備を行った。ディーラーの整備士・高橋和愛さんは土方さんのファンで、
「そういうことなら、うちで最後まで面倒を見させてください。現存のR32のなかでいちばん調子よく保ちますから」
と言ってくれた。
土方さんの容態は、日毎に悪化していった。自宅の階段も昇れなくなり、エレベーターを設置した。2011年夏、自宅を訪ねたときには、もはやかつての精気は失われているようだった。そしてそれが、私が土方さんと会った最後の機会になった。
2012年11月28日、死去。享年90。法名は覚寿院翔誉敏教居士。
高円寺の斎場で営まれた通夜、告別式に、私は土方さんのかつての愛車・R32スカイラインに乗って参列した。両日とも、式場に人が入りきれないほどの盛会だった。
告別式では、海軍時代の同期生・蒲生忠敏さんが、
「悔いなき人生、大往生が羨ましい。俺も近々行くから、同期を集めて迎えてくれ」
と弔辞を読んだ。棺の蓋を閉めるとき、小柄な兼子さんが、背伸びをするように土方さんに口づけをした。
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