■商工省 標準形式自動車誕生の経緯
かくして開発されることになった商工省標準形式自動車の共同設計には、鉄道省・島秀雄、陸軍(技師)・上西甚蔵、石川島自動車製作所・楠木直道、東京瓦斯電気工業・小西晴二、ダット自動車製造・後藤敬義らがあたった。
分担別には、鉄道省がフレーム、ステアリング、ロードスプリング、ボンネットまわり、ダッシュボード、石川島がエンジン、東京瓦斯電気工業がフロントアクスル、リヤアクスル、ホイールブレーキ、ダット自動車がトランスミッション、クラッチ、プロペラシャフトであった。
鉄道省の島秀雄は、当時29歳。後に「新幹線をつくった男」として知られ、初代宇宙開発事業団理事長も務めた島は、このプロジェクトでは幹事という肩書で最末席に座っていたとされるが、徐々に非凡な才能を発揮し始める。
標準形式自動車の製作・設計の拠点は、汐留駅近くの鉄道省の工場に置かれ、そこでは、アメリカから輸入したダッチやGMCなどのサンプルの貨物自動車4台に、日本でも大量に走っているフォードやGMの乗用車2台を加え、これら6台を最終的には分解し徹底的に調べ上げたという。
それらのデータも加味しながら、標準形式自動車の開発が進められるのだが、当初メーカー3社の思惑もあり、なかなか作業が進展しなかったという。それを若輩の島がうまく取りまとめていくことで、次第に皆の信頼を得るようになり、このプロジェクトは島を中心に回りだす。
実は、島は大の自動車好きで、後述する標準形式自動車の試作車のテストドライバーも買って出たという。しかも裸シャシーの上に箱を括りつけ、その上に座布団を敷いて腰かけ、ほとんど舗装されていない当時の東海道をずっと運転したというのだから、島がいかにこのプロジェクトに情熱を注いでいたか窺い知れるだろう。
■標準形式自動車「いすゞ」の誕生
石川島自動車製作所が担当したエンジンは、コスト低減を狙って、それまでのA6型エンジンに比べ、材料および工作法を大量生産向きにしたものであった。仕様も6気筒、直径90mm、ストローク115mm、排気量4.39L、1500rpmの45馬力、時速40kmと定められ、X型エンジンと命名された。
このX型エンジンは1932年に完成。シリンダボディ、クランクケース上半部を一体鋳造したものである。また、軍用の場合はマグネット点火式にし、それはXA型エンジンと呼ばれた。
1931年9月、商工省標準形式自動車の試作が開始され、翌年3月、5車種9台(各車種2台、BX45のみ1台)が完成。1カ月間、約1000kmにおよぶ性能試験の結果を活かしてTX35(1.5t積み)、TX40(2t積み)、BX40(32人乗りバス)の各1台を再試作し、同年11月完成した。
さらに東京、神奈川、静岡にわたる運行試験を繰り返し、不具合が修正され1933年8月、商工省標準形式自動車は完成した。
ちなみに、それまでの国産車は一部の材料や完成品に外国製品を使用していたが、この標準形式自動車においては、材料、電装品、計器類に至るまで国産品が使用され、国産自動車工業の基礎を確立した。
この自動車は、自動車工業(石川島自動車製作所がダット自動車製造を吸収合併して1933年3月に創立された会社)と東京瓦斯電気工業の両社で製造され、同じ車両でありながら両社の従来の呼称である「スミダ」「ちよだ」として販売されるのは適当ではないとの判断から、1934年の量産開始を機に、伊勢の五十鈴川にちなんで「いすゞ」と命名された。
もちろん、これが後の「いすゞ自動車」の社名の由来である。
かくして「いすゞ」は、自動車工業ならびに東京瓦斯電気工業によって大量生産に移ることになったわけだが、満州事変後の日本の自動車工業界の成り行きから、両社とも軍用車の生産に重点が置かれたため、「いすゞ」の生産は思うに任せず、1937年を迎えるに至った。
この年、両社を併合した東京自動車工業が創立され、「スミダ」および「ちよだ」の生産は中止となり、替わって「いすゞ」の名称が全車両に冠せられるようになる。
商工省標準形式自動車=いすゞTXおよびBXは、以後改良を続けられ、戦後のいすゞ5~6tトラックへと発展していくことになり、それは日本を代表する近代的で世界に通用するトラックの出発点となった。
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