2022年10月26日(本日!!)、『ベストカー』最新号(2022.11/26号)が発売となります。連続特別付録としてお届けするのは、巨匠・池之平カメラマンによる歴史的ショット、アイルトン・セナとアラン・プロストの表彰台シーン。
1980年代後半から’90年代前半にかけての日本に巻き起こったF1ブーム。その中心にいたのはセナと、そしてライバルであるプロストでした。ポスターの表面(アイキャッチ写真)は1993年最終戦オーストラリアGPとなります(ポスター写真の解説は後述)。
文、写真/池之平昌信
■時代を創った二人の天才、A・セナとA・プロスト
日本国内におけるこの二人のライバル関係の報じ方は「バブル経済」と関係しているとも言えるだろう。なんせ当時はテレビ業界もやりたい放題の全盛期。まるで「プロレスですか?」と言いたくなるようにプロストのことを悪役にし、女性ファンの多いセナを悲劇のヒーロー扱いしていた。二人がチームメイトだった頃にイザコザが発生し、そこから眼も合わさなくなったことは、まあ事実ではあるのだが……。
二人の価値観は、まずポールポジションに対する熱意からして違う。純粋に速さを求め、いつでも一番になりたい青年と日曜の夕方(決勝後)に笑っていればよしとするベテラン。セナが「吹っ飛んでもいい」という覚悟でコーナーごとに命をも削って走る予選と、燃料をフル積載してタイヤもいたわって走る決勝では大きな違いがあるのだ。
それでもこの二人の組み合わせは、いい相乗効果を生んでいたのかもしれない。ただナンバーワンドライバーはどっちなのか、はっきりさせたい二人の「ライバル関係」はエスカレートしていき、「あいつのほうがいいエンジンをもらってる」みたいな騒ぎになってしまう。
年間王者を決めるレース(1989年日本GP)の終盤で二人はぶつかった。いわゆるレーシングアクシデントの類だったが、セナは失格となる。この裁定にはFIA(パリにある国際自動車連盟)のバレストル会長(フランス人)も大きく関与していて、いざこざから生まれた子どものけんかが国際問題にまで発展? という状態に陥ることになる。
その後マクラーレンを出て、フェラーリへと移籍したプロスト。まるで巨人から阪神へ移籍したかのようだった。ファンやマスコミのクチの悪さ、フロント(首脳陣)からの重圧、信頼性の低いマシン……。さすがの「プロフェッサー」も手を焼いたことだろう。
そして1993年、プロストは一年のブランクを経て当時最強マシンであった「ウィリアムズ・ルノー」を手に入れる。セナは活動休止したホンダエンジンを失い、戦闘力の低い「マクラーレン・フォード」。
それでもそのマシンで120%の走りを魅せる場面もあった。モナコや雨のドニントン(ヨーロッパGP)など、しびれるシーンを思い出す。だがそれもリスクの高いコースや状況では安全なレース運びを優先するプロフェッサーらしい作戦のおかげだったのかもしれない。
シーズン7勝を挙げたプロストは余裕で年間王者となり現役引退を表明して、オーストラリアGPへと向かう。穏やかな気候になることが多いこの最終戦は、チーム関係者、F1サーカスメンバーともにのんびり楽しもうとする雰囲気に包まれる。
それに加えてセナは6年間着た赤いレーシングスーツ(マールボロ・マクラーレン)での最後のレース。珍しく穏やかな表情でバーベキューパーティにも参加していた姿は印象的だった。レースはセナの優勝で2位は引退するプロスト。表彰式の最後に突如セナは彼の手をとり、大きくあげて、讃えた。戸惑うプロスト。長く続いた「冷戦」が終わった瞬間だった。
翌1994年、セナも余裕で勝てるチームへと移籍したはずだったのだが……。このオーストラリアGPが彼の最後の勝利となったのだった。
アイルトン・セナ
ブラジル出身のF1ドライバー。1984年にF1デビューを果たし、162戦に出走。予選の速さに定評があり、ポールポジション獲得回数は65回を誇る。マクラーレン在籍時の1988年、1990年、1991年にワールドチャンピオンに輝く。1994年、ウィリアムズに移籍するが第3戦のサンマリノGP、左コーナーの「タンブレロ」にてコースアウト。コンクリートウォールに激突して事故死。
アラン・プロスト
フランスのF1ドライバー。1980年にマクラーレンからF1デビューを果たす。’81~’83年をルノーで過ごし、’84年からマクラーレンに復帰。’88年にセナがチームメイトとなる。フェラーリへの移籍を経て’93年にウィリアムズへ移籍。その年に引退する。優勝回数は51回。1985年、1986年、1989年、1993年と4度のワールドチャンピオンに輝く。愛称は「プロフェッサー」。
【アイキャッチ写真解説】
「アイルトン・セナ 最後の勝利」
1992年のホンダF1第二期終了にともない、翌’93年のマクラーレンはフォード製エンジンを搭載することになった。序盤こそ幾度かの優勝を手にしたが、中盤からはライバルのプロスト属するウィリアムズが優位に立った。写真は1993年シーズン最終戦オーストラリア。勝者はセナ。翌年、事故死した彼にとって、最後の優勝となった。
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