かつてその名をクルマ界でとどろかせたチューナーやカー用品の名ブランドたち。そんなビッグネームの現在はいったい、どうなっているのだろうか? その消息を追ってみた。(本稿は「ベストカー」2013年8月26日号に掲載した記事の再録版となります)
文:編集部
■カロッツェリアといえばここ ミケロッティ
初期のフェラーリなど生涯に約3500台ものクルマのデザインを手がけたというジョバンニ・ミケロッティ。16歳でトリノの一流カロッツェリアにデザイナーとして採用され、瞬く間に才能を発揮。1947年にこのカロッツェリアの社主の資金援助を受けて独立し、自分のデザインスタジオを開設した。
創業当初は小規模のカロッツェリアなどが主なクライアントだったが、徐々に大規模なメーカー向けのトータルデザインの仕事が主流になっていく。1958年、ミケロッティは日本の自動車メーカーと初めて関係を結んだ。その相手は富士精密工業、後のプリンス自動車だった。
スカイラインスポーツに日野コンテッサなど多くの日本車を手がけたミケロッティだが、少数生産の高級車だけでなく、スタイリングから製図まで自動車のデザインの全工程を自社でこなせるデザインスタジオを作り上げていった。1980年にジョバンニは亡くなっている。
現在、当時のスタジオはすでになく、ジョバンニの息子のエドガルドがミケロッティの名を冠した時計やサングラスを製作したり、過去のミケロッティデザインのクルマのミーティングを組織したりしてかろうじてその名を今も残している程度だ。
【画像ギャラリー】ミケロッティ マーシャル コスワース イルムシャー…… クルマ好きなら忘れられないあのブランドの今(5枚)画像ギャラリー■フラットノーズポルシェの祖!! ゲンバラ
創始者のウーヴェ・ゲンバラがドイツのシュツットガルト近郊でふたりの職人とともに「ゲンバラ・オートモビリインテリア」を設立したのが1972年。1979年にはBMWやポルシェ、VWのオリジナル内装パーツなどの製作や販売OEM供給を始めている。
ゲンバラの名前が多くの日本のクルマ好きに広まったきっかけが、1985年に登場したポルシェ911のフラットノーズ。その美しいスタイリングが話題となり、「ゲンバラ・ポルシェ」の名前が一躍脚光を浴びることになった。この後、ゲンバラはデザインだけでなく、徐々に足回りやエンジンのチューニングも手がけていくようになった。
日本ではバブル崩壊とともにコンプリートカーを販売する間口が狭まり、日本市場の表舞台から姿を見なくなっていくのだが、再び日本でゲンバラが注目を浴びたのが1994年。ポルシェ993ターボをベースとした「ルマン・ビターボ」を発表し、同年にニュルで市販車世界最高ラップタイムを記録している。
2000年には日本法人「ゲンバラ・ジャパン」が設立。2005年のスーパー耐久にはチームゲンバラとしてGT3で参戦した。
2010年2月にゲンバラは破産申請するも、同年8月には新生ゲンバラとして復活している。
【画像ギャラリー】ミケロッティ マーシャル コスワース イルムシャー…… クルマ好きなら忘れられないあのブランドの今(5枚)画像ギャラリー■東名自動車 全日本F2にも参戦
日産系のレース会社として設立されたのが1968年。2輪のレースチーム、城北ライダースが設立母体で、日本の本格的なレーシングコンストラクターとしての草分け的な存在。1973年にはGC/F2用のBMW M12エンジンのチューニングを手がけた。看板ドライバーの鈴木誠一が日産の大森ワークスと契約していたため、日産のサテライトチーム的な位置づけだった。
1989年には全日本F3選手権にワークス参戦を果たし、1994年に東名パワードに社名変更。現在、パーツ開発は行なっているものの、レース活動は東名エンジンや東名スポーツが引き継ぐ形に。また、日産車以外にトヨタにスバル、三菱も扱っている。
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