■悪いイメージが消え去った快適な乗り心地
以前、CT5の前身モデルであるCTSに試乗した時には、ボディカラーが白だったこともあり、「豆腐をざっくり切り落としたみたい」と思うほど、エクステリアはシンプルな面で作られていた。複雑な緻密さはないけれど、その分、主張が一本通っているように感じる。
インテリアは、正直に言ってしまうと、メーター類やインストルメントパネルがゴテゴテしていて、ひと昔前の日本車のダサいインパネを少し派手にしたような感じで、「これはちょっと…」と思っていた。
しかし、新しいCT5のインテリア写真を見る限りは、これまで情報過多だった室内がすっきりとまとまっていて、ボタン配置なども分かりやすくなっており、「だいぶイメージアップしたなぁ」と思った。
CTSでドライブしていると、凝り固まった「アメ車」のイメージがゆるやかに融解していくような気分になる。
ボディは、ひとつの塊としてがっしりとしていて、クルマの剛性感がきちんと伝わってくる。悪い意味でのアメ車の“ゆるさ”みたいなものは、どこか遠くの方に消えてたような感覚だ。
「反応がだるいのかな?」と思っていたハンドリングも、全くそんな素振りはなく、ドライバーが運転したなりにすんなりと素直についてきてくれる。
そして、特徴的なのは足回りだ。イメージしていたような、手応えのない雲の上を走っているようなふわふわとした乗り心地ではなく、しっかりと路面の情報を捉えてドライバーに伝えてくれる。
しかし、だからといって足回りが硬められている訳ではなく、ちょっとした段差などを走り抜ける時には、その角を丸めて優しく包んでくれるような、至極快適な乗り心地だった。
■本質はそのままに生まれ変わったアメ車の代表格が世界を狙う
昔のアメ車の乗り心地がふっかふかで、ハンドリングもだるだるだったのは、アメリカの荒れた広大な大地をどこまでも走っていくためだと聞いたことがある。
CTSに乗って感じたのは、そうやって走り抜ける場所が、アメリカを飛び越えてどんどん世界の道路へと広がっていったのだろうということ。
もちろん、キャデラックは以前から世界に輸出されているクルマではあるが、それが新しいモデルになるにつれて、クルマの乗り味や性質として、目に見える形で顕在化してきているようだ。そして、その「世界」には、もちろん日本も含まれている。
ハンドルに片手をかけて、少しだけシートに深く腰をかけ、体をクルマに預けて、何も考えずのんびりとドライブする。どれだけ走っても、その時間が心地いい。その芯だけを残して、あとは先進的に変化させていく。
今のキャデラックのセダンは、そうやって誰もがアメ車に求める本質だけを抽出し、雑味を抜いて、磨き上げているように感じる。おそらくCT6や海外で発売されているコンパクトセダンのCT4も、そうやって熟成されてきたモデルなのだろう。
セダンと言えば、日本車やドイツ御三家のモデルを真っ先に想像しがちだ。しかし、それらの“定石”のセダンは、いかにもスーツをピシッと着込んだ大人が乗っていそうなイメージがあって、少し窮屈に思う人もいるかもしれない。
「セダンでも気軽に乗りたい」「代わり映えしないクルマは嫌」「もっとクルマに乗る時間を充実させたい」——そんな人たちにとって、キャデラックは新しい発見が得られる相棒になりそうだ。
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