エクスパンダークロスなどが大人気! なぜ三菱車は東南アジアでウケているのか!?

エクスパンダークロスなどが大人気! なぜ三菱車は東南アジアでウケているのか!?

 日本でのシェアは2020年12月時点で1.2%と低い三菱自動車だが、海外、特に東南アジアでは、『エクスパンダークロス』を筆頭に非常に人気の高いブランドとなっている。

 国内ではリコール隠し問題などで逆風があったが、海外ではそういった影響は受けていないようで、2021年3月17日にはタイにおける生産・販売会社であるミツビシ・モーターズ・タイランド(MMTh)が累計生産台数600万台を達成したと発表した。

 なぜ三菱は東南アジアでここまで人気となっているのか? 悪路走破性を買われてなのか? それとも価格的な理由なのか? 三菱と東南アジアの関係を考察していきたい。

文/桃田健史
写真/MITSUBISHI

【画像ギャラリー】東南アジア諸国で人気の三菱オフロード車を写真でチェック!!


■エクスパンダークロス人気の理由

 あの三菱車はなんだ!?

 日本でもネット上で人気となっている、コンパクトMPVの三菱『エクスパンダークロス』。1.5Lエンジン搭載の3列シート、しかも『デリカD:5』ばりの三菱顔が魅力だ。インドネシアを皮切りに、タイやベトナムで販売されてベストセラーとなっている。

三菱のアジア戦略車『エクスパンダー』のSUV仕様である『エクスパンダークロス』。2019年度はタイ・フィリピン・ベトナムの販売実績でクラスNo.1を記録している
三菱のアジア戦略車『エクスパンダー』のSUV仕様である『エクスパンダークロス』。2019年度はタイ・フィリピン・ベトナムの販売実績でクラスNo.1を記録している

 このMPV(マルチ・パーパス・ヴィークル)というカテゴリーは、ダイハツがインドネシアでシェアを拡大してきた新分野で、ダイハツ『セニア』と兄弟車のトヨタ『アヴァンザ』がインドネシア国民向けの定番商品となっていた。そこに、三菱がエクスパンダークロスを投入したのだから、それは売れない訳がない。

 売れる理由を、日本人ならば「きっとオフロード性能がいいのでは?」とか「販売店のインセンティブ(販売奨励金)が大きくて、ユーザーにとってけっこうリーズナブルなのでは?」と考えてしまうかもしれない。

 ところが、エクスパンダークロスが売れる本当の理由とは、「憧れの三菱ブランドで、我々庶民でも少し頑張れば手が届く魅力的なクルマが登場したから」なのである。

 インドネシアに限らず、東南アジアで三菱自動車といえば、セレブ御用達の上級で高級なブランドとして認識されているのだ。

 なに!? 三菱が高級車? 日本人なら、そう思うのは当然だろう。

 いったい、東南アジアと日本との三菱ブランドに対するイメージの大きな差は、どこから生まれているのだろうか?

 筆者はこれまで、東南アジア各国で自動車メーカーの営業本部、製造拠点、サプライヤー(部品メーカー)、ディーラーなどを定常的に取材してきた。取材を始めた当初は、三菱のブランド力に対して驚きを感じていたが、現地での状況を肌身で感じているうちに、東南アジアにおける三菱の存在の大きさが、当たり前のことに思えるようになっていった。

 そうした取材を振り返ってみると、東南アジアにおける三菱の事業の中核は、やはりMMTh (エム・エム・ティー・エイチ「三菱・モーター・タイランド」)にあると思う。

 直近のニュースリリース(2021年3月17日付)では、MMThの累計生産台数が600万台を超えたという。そこにも記載があるが、600万台のうちタイ国内向けは全体の約27%となる160万台にとどまり、残りの440万台は約120カ国におよぶ海外輸出である。

 MMThには工場敷地内から完成車が自走できる隣接の商業港がある。ズラリと並んだ三菱の各モデルの中に立ってみると、「これが世界中に旅立っていくんだな」という実感が沸く。

日本では惜しまれつつ消滅したが伝統の名前は『パジェロスポーツ』としてタイで生き残っていた。ピックアップトラックの『トライトン』をベースとしたモデルで、1996年に日本で発売された『チャレンジャー』の末裔にあたる
日本では惜しまれつつ消滅したが伝統の名前は『パジェロスポーツ』としてタイで生き残っていた。ピックアップトラックの『トライトン』をベースとしたモデルで、1996年に日本で発売された『チャレンジャー』の末裔にあたる

 MMThの生産開始は1961年と古く、今年でちょうど60周年となる。1960年代といえば、三菱のクルマは、三菱重工業として生産されていた時代だ。筆者の個人的な見解では、日本の高度成長期に三菱財閥として海外展開を目指すにあたって、戦前から日本との物資の行き来が盛んだった東南アジアで、これから成長するであろう自動車産業の基盤を築こうとしたと思われる。

 1970年代となり、三菱自動車工業として独立してからも、当時のコルトブランドでの東南アジア戦略が着実に進んだ。生産拠点を持つことで、現地の需要を的確に捉えて、現地販売店と共に、いまでいうマーケティング活動を繰り広げた。その中には、ローカルレースへの出場などもあった。

 ただし、東南アジア各国では政情が不安定だったり、そのため関税や貿易を含めた経済政策が急変するなど、いわゆるカントリーリスクが大きく、日系メーカー各社として各国への対応に苦慮していた。それでも、三菱は東南アジアへの進出が早かっただけに、現地の財閥や大手企業と連携を深める中で、各国の生活に着実に食い込んでいった。

 その中には、マレーシア政府が進める国民車構想「プロトン」もある。当時の第一次マハティール政権においては「日本は東南アジアにとっての、良き指導者」という認識が強く、自動車産業については東南アジア各国とのつながりが強い三菱に対する信頼がとても高かった。そのため、プロトンにおける商品企画から生産設備まで、三菱が主導して進めることになる。

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