元ホンダ社長、吉野浩行氏逝去に手向ける元ホンダ名物開発者の「哀悼と思い出」

元ホンダ社長、吉野浩行氏逝去に手向ける元ホンダ名物開発者の「哀悼と思い出」

 ホンダの元社長、吉野浩行氏が2022年4月1日、享年82歳で亡くなった。吉野氏は1963年にホンダに入社し、本田技術研究所の社長となって技術部門のトップとなり、当時のダイムラーとクライスラーが合併するなど、自動車業界の世界的な再編が加速していた1998年にホンダの社長に就任していた。

 海外事業を強化してホンダの柔軟な生産体質への改革を推進したほか、2002年には環境対応車の先駆けとして燃料電池車のFCXを日米同日納車したほか、人間型ロボット「ASIMO」の開発にも注力し、2003年に福井威夫氏に社長の座を譲って、退任してからは取締役相談役に就任。

 吉野氏時代の2000年にデビューした初代ストリームLPL(ラージ・プロジェクト・リーダー=開発主査)、そしてその後2006年登場の2代目ストリームRAD(商品統括責任者)を務めた「藤原組長」こと名物開発者、藤原裕氏に手向けの言葉を書いてもらい、哀悼と思い出を語ってもらった。

文/藤原 裕
写真/ホンダ、ベストカー編集部

【画像ギャラリー】思い出のホンダを振り返る!(11枚)画像ギャラリー

■物静かで開発エンジニアを見守ってくれた吉野氏

 吉野浩行さんが2022年4月1日、享年82歳で亡くなりました。謹んで、ご冥福をお祈りします。

 私は初代ストリーム(2000年登場)の開発責任者(LPL)として、開発中、吉野社長からお世話になりました。吉野さんは、物静かで、開発エンジニアを見守ってくれる信頼できる方でした。

 基本的には、開発現場では、我々担当者に任せる姿勢で、大きな課題がある時だけ、アドバイスするタイプでした。

 その時代のエピソードとしては、第一にストリームの命名に当たって、関係者がいろいろと検討しましたが、いい案がなく、最終的に二輪で昔、使っていた車名「ストリーム」を譲り受ける案が出て、吉野社長の英断で決まりました。

初代ストリームはヒット。そしてこの後ほぼそっくりそのままな寸法のウィッシュが出現し、大バトルとなる
初代ストリームはヒット。そしてこの後ほぼそっくりそのままな寸法のウィッシュが出現し、大バトルとなる

 第二に、インドネシア・ストリームを上市する際、新工場の着工イベントに、吉野社長に出席していただき、現地の習しで、牛の頭を奉納する役割も実施していただきました。この時はだいぶご苦労をかけたようでした。

■自分が正しいと思うなら社長決裁でも抗議する

 第三に私がストリーム開発後、2005年モデルのUSオデッセイ(日本名ラグレイトの次のモデルに当たる)のLPLを担当し、日本開発/北米生産・調達・販売で、アラバマ新工場量産立ち上がりという難しい開発を展開中、米ロサンゼルスでのデザインFIX会というイベントで吉野さんの決裁をいただきました。

 開発チームは単なるミニバンのフルモデルチェンジではなく、存在感があり、質感の高いミニバンを目指し、当時発表されたばかりの4代目BMW7シリーズを目標にしていました。その意味合いを示すコンセプトワードには「KING OF MINIVAN」を使用しました。

USオデッセイは「CHAMPION OF MINIVAN」になるかもしれなかったらしい
USオデッセイは「CHAMPION OF MINIVAN」になるかもしれなかったらしい

 しかし、吉野さんから「KINGは古めかしいのではないか?」と指摘があり、私は反論しましたが、社長決裁ということで「CHAMPION OF MINIVAN」に変更したのです。ただ、北米関係者に聞いてみたところ、KINGというイメージはそんなに古めかしい感じではないということだったので、実際の製品訴求時には「KING OF MINIVAN」に戻して展開しちゃいました。吉野さん、ごめんなさい。

次ページは : ■LPLが真にLPLでいられたのは、吉野氏のおかげ

新車不足で人気沸騰! 欲しい車を中古車でさがす ≫

最新号

マツダ6、実は水面下で開発が続いていた!? 注目新車情報、グッズが当たるアンケートも展開「ベストカー4月26日号」

マツダ6、実は水面下で開発が続いていた!? 注目新車情報、グッズが当たるアンケートも展開「ベストカー4月26日号」

終売が報じられたマツダ6はこのまま終わるのか? 否!! 次期型は和製BMW3シリーズといえるような魅力度を増して帰ってくる!? 注目情報マシマシなベストカー4月26日号、発売中!