■もう一台の1990年代スポーツの雄 マツダ FD3S RX-7
1990年代のスポーツカーでもう1台、忘れてはならないモデルがある。マツダRX-7の3代目、FD3S型だ。654cc×2の13B-REWロータリーエンジンは当初255psでスタートし、1999年には当時の自主規制値280psに到達した。
【番外コラム】“ミスターGT” 脇阪寿一が語るスープラ回想録
脇阪氏が全日本GT選手権において初のシリーズチャンプとなった2002年シーズン。その相棒、ESSO Ultraflo Supraを振り返る。
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JGTCスープラとの初の出会いは2000年シーズンが終わり、オフのTRD開発テストを行ったセントラルパーク美祢サーキットでした。
最初の印象はじゃじゃ馬。そのシーズンに僕が乗っていたNSXとはまったく違う乗り物で、エンジンはターボだし、リアの動きなんかはFF車!? って思うくらい軽く、2コーナーのフルブレーキングでリアタイヤがロックし、スピン連発の出会いです。
このスープラをどのように乗りこなすのか、NSXと違う手法、スープラのよさをどう引き出すか、頭をフル回転して乗っていたことを覚えています。
数回の開発テストをこなし、所属先のTOYOTA Team Le Mansと合流、あのエッソ ウルトラフロー スープラと出会いました。
移籍して最初のレースは2001年開幕戦の岡山。僕のミスでリタイヤし、プロのドライバーとして、移籍が正しかったか!? 移籍をウエルカムされているのか!? など、精神的に勝手に自分を追い込んでいたことを覚えています。
迎えた第2戦の富士で優勝できましたが、この優勝が僕にとって、僕を選んでいただいたトヨタさん、チームルマンさん、応援いただいたファンの方々へ、まず最初の恩返し的なものに位置付けることができ、自信を取り戻せたレースとなりました。
そして2002年にはタイトルも獲得し、 スープラは僕に伝説のバトルの数々を与えてくれました。
エッソ ウルトラフロー スープラは、僕にレーシングドライバーとしての自信と結果を与えてくれました。そしてなにより、飯田章選手と共に沢山のファンの皆さんを僕に与えてくれました。
あの頃は自分も若く、「俺、速いやろ! 人気あるやろ!」って思っていましたが、今から考えたらエッソウルトラフロー スープラが、あのスープラが僕にスピードも成績も、沢山のファンの皆さんも与えてくれたのだと思っています。
ですからエッソ ウルトラフロー スープラは僕にとって最も大切なクルマなのです。
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