2023年1月、スズキはインドにて、新型EV「eVX」、新型SUV「フロンクス」、そして待望の「ジムニー5ドア」を相次いで世界初公開した。そこで、本稿では、スズキがインド市場を重要視するのか、解説していく。
文/桃田健史、写真/SUZUKI
■ついに待望のジムニー5ドア登場!! インドでなぜスズキが人気なのか?
もうじきに出ぞ出るぞ、と言われ続けて早くも数年。ついに、「ジムニー」の5ドアが世界初公開された。しかも、それはスズキ本社がある日本ではなく、インドであったことに驚いたユーザーもいるだろう。
スズキはインドでも人気がある、という話をなんとなく知っていても、その実態はよく分かっていないという日本のユーザーが少なくないからだ。
では、スズキにとってインド市場がどれほど重要なのか?
スズキの2022年3月期決算説明会の資料によると、同期の四輪総製造台数は282.2万台。このうち59%がインドの165.9万台で、日本はその約半分の84万台に過ぎない。また、輸出分を引いた販売台数で見ても、全数270.7万台のうち、インドは136.5万台で日本はその半分以下の56.1台にとどまっているのが、スズキの現状である。
また、二輪車については、全数163.4万台のうち、インドが61万台なのに対して日本はその10分の1以下の5.3万台しかない。
まあ、インドで日系メーカーの二輪車の販売台数が多いことは、なんとかくイメージできるとしても、なぜインドでスズキの四輪車が人気なのか?
その本質を知るために、時計の針を少し戻して、スズキとインドとの出会いについて振り返ってみよう。
■「マルチ・スズキ」が誕生したきっかけは、鈴木修氏の決断だった!!
時は1980年代の前半、インド国営自動車メーカーのマルチ・ウドヨグ(以下、マルチ)の関係者らが来日した。目的は、インドでの国民車構想のパートナー探しである。庶民が乗れるクルマを自国生産することで、優秀なエンジニアの育成を含めて国としての力を付けることがマルチ側の狙いであった。
だが、当時の状況を後に記した各種記事などによると、マルチ側の思惑に反して交渉は難航したようだ。より正確に言えば、交渉のテーブルにすらつかないメーカーが少なくなかったようなのだ。
そうしたなか、1978年に社長に就任していた鈴木修氏はマルチを快く出迎え、1982年4月にマルチと四輪車の合弁生産について基本合意となった。
この決断について、自動車産業界では驚きの声が多かったという。なぜならば、当時のインドは日本人にとってまだ遠い存在であり、観光や事業でのつながりもかなり少なかったからだ。
だが、鈴木修社長(当時)には、行く手はいばらの道であろうが、そこに勝ち筋は見えていたのではないだろうか。
こうした”ひらめき”型経営について、スズキ社内では、修社長のコンピュータならぬ「勘(かん)ピュータ」と表現することがある。
実は、スズキは同社初の海外生産事業として1975年にパキスタンで「ジムニー」の組立を始めている。そうした経験と、マルチというインド国営企業との直接つながることのメリットを、鈴木修社長(当時)は肌感覚で理解していたのだと推測される。
こうして始まったスズキのインド事業だが、当時のスズキは1979年にデビューした「アルト」が日本で大ヒットするなど、スズキの四輪事業はまだ軽自動車主体だった。そんな軽自動車技術を応用することで海外進出するには、当時のインド市場がちょうど良い条件だったのかもしれない。
ただし、インドで自動車を売ったり、修理する仕組みを作ることは極めて難しい国だということは、いまも大きく変わっていない。なぜならば、インドには見た目はひとつの国だが、地域によって生活習慣や商習慣、また言語にも違いがあるなど、地域毎に自動車販売網を構築するには、地道な努力が必要だからだ。
そのうえで、スズキは日本での四輪事業で培ってきた、地域の自動車工場や小規模な自動車販売店との”人のつながりを大切にする経営手法”をインドでも取り入れたことで、インド全土でマルチ・スズキは、クルマとしてのみならず、サービス事業者としてもインドの人々にとって”国民的な存在”として認められるようになっていく。
コメント
コメントの使い方