■国内レースではバブル景気の影響が現れはじめた
(TEXT/高橋二朗)
世の中は、バブル景気にまっしぐら。しかし、モータースポーツ界には少し時差があって資金が流れ込み始めていた。
たばこメーカーやオイルメーカー、用品メーカーから、アパレルメーカーまで多種な企業がスポンサーとなって参入し始めた。チームに投下される資金も千万円単位から一気に億単位へ膨れ上がった。まさにバブリーな時代へと突入し始めたのが1989年だったといえる。
国内フォーミュラトップカテゴリーのF3000は、まだエントリー台数は20台を少し超えただけだったが、その後30台を超える状況となってゆく。潤沢な資金によりひとりのドライバーに複数シャシーを用意して戦うという状況があった。
当時はワンメイクシャシーではなかったので英国製と国産の計4メーカーがマシンを投入、タイヤメーカーも3社が鎬を削った。
中嶋 悟、鈴木 亜久里がF1へ旅たち、星野一義を中心にシリーズは展開されると思いきや、外国人ドライバー達と初のフル参戦を果たした小河 等が最終戦まで僅差でチャンピオンを争った結果、初の栄冠に輝いた年だった。
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■自動車界の“特別”な年
スカイラインGT-Rやセルシオといった名車が一気に登場し、日本車の技術が世界と肩を並べたといえる年だったが、その最大の要因はやはり平成バブル。
この爆発的な好景気が当時のモータースポーツにも大きな影響を与え、日本の自動車界にとって、とても特別な年となったのが平成元年だったといえそうだ。
5月からの「新元号元年」も、クルマ界、ひいては日本にとって特別な年、そして何よりよい年であると願いたい。
コメント
コメントの使い方三菱ミニカは新規車種ではなく6代目だと思われます。