2014年11月に逝去した自動車評論家、徳大寺 有恒。ベストカーが今あるのも氏の活躍があってこそだが、ここでは2013年の本誌企画「俺と疾れ!!」をご紹介したい。GTの発展とレースの歴史、ゴルフのよさはどこにあるのか? 国産メーカーに「デザインのいいクルマ」はあるのか? その経験の広さ奥深さに触れる5本。(本稿は『ベストカー』2013年6月26日号に掲載したものを再編集したものです/著作権上の観点から質問いただいた方の文面は非掲載とし、それに合わせて適宜修正しています)
■GTの発展とレースの歴史
多くの名車を生み出したダイムラー・ベンツことメルツェデスはその歴史そのものが自動車の歴史であるばかりでなく、モータースポーツの実績はそれこそ自動車の歴史なのである。
そのメルツェデスの車名にSLというものがある。いわずと知れた“スーパーライト”の頭文字だが、このスーパーライトこそ“スポーツカー”の別名である。
今でこそSLクラスは世界中の中産階級以上のアシとして憧れの対象である。このあたりはこの会社の商品作りのうまさではあるが、元々SLはその名が示すとおり“超軽量”が売りだった。
ホイールベース2400mmの2ドアクーペで登場した300SLは機械式燃料噴射のストレートシックスSOHCエンジンを持つクルマであった。このSLのシャシーは細いパイプフレーム(鋼管スペースフレーム)の組み合わせであり、超軽量と銘打っている理由でもあった(実際の車重は1295kg)。
初期のSLはそのまま自家用車でレースに参加できるほどであったが、やがてSLは豪華なツーリングスポーツへと変身しガルウイングボディのSLからオープンロードスターになる頃は、SLをコンペティションに使おうとは思わなくなった。
しかし、“名車”にとってその生い立ちは重要だ。初期のSLはヨーロッパではコンペティションに使えるクルマとしてその名を馳せたのである。
当時のラリーは耐久レースそのものでリエージュ・ソフィア・リエージュというラリーは当時はやりかけのGT(グランツーリスモ)のレースであり、キャビンを備えたGTカーが覇を競った。ちなみに1963年のこの大会はプライベーターが乗る230SLが優勝した。
やがてGTはスポーツカーの代名詞となり、レースに向いているコンペティションGTと本来の意味である量産スポーツカーのGTとに分かれていくことになる。
世界でレースをコントロールするFIAは生産台数の少ないコンペティションGTを追い出そうとするが、メーカー側はそうはさせじとコンペティションGTを作り続けた。
ポルシェ904、フェラーリ250GTOなどは今でこそ名車といわれているが、当時は何かともめるクルマだったのだ。
F1にドアとバックミラーをつけただけのGTと世界中のアマチュアドライバーが楽しむGTとではクルマ作りが根本から異なる。
やがてエンジンの排気量によるクラス分けが行なわれ、初期のGTレースは1.3L以下のGTIがイタリアのアバルト、2L以下はポルシェが、そして3Lクラスはジャグァが押さえたが、やがてこのGTIIIはアメリカのフォードコブラが席巻する。
考えてみればこの時代はまだまだ市販のGTがけっこうハバをきかせていたのだ。しかし、やがてフォードの参入からモータースポーツはヨーロッパ対アメリカとなり1960年代からレースは世界的なものになっていく。
特にオーストラリアンの参加は多くのビルダードライバーを生んだ。ブルース・マクラーレン、ジャック・ブラバムなどである。何人かはレーシングカーメーカーとしてビジネスマンになるのだが、ナンバーワンと思えるスコットランドのジム・クラークは純粋なドライバーとして大活躍した。
このあたりからレーシングカーはドライバーの背後にエンジンのあるいわゆるミドシップが主流となり、F1はもとより、ル・マンなどのスポーツカーからヨーロッパのヒルクライムレースまでに及んだ。
そのなかでロータスを率いたコリン・チャップマンはレースの世界で次々と革命を起こし、F1ビジネスを世界的に“有名”にすることに成功した。
同時にF1というビジネスは巨大化し、巨大なマネーが動くことになって行く。マスコミもビジネス化し、F1の2時間内外のレース時間こそがビジネスに向いていることがわかってきた。
かくてテレビビジネスを中心とする連中がレースの世界に入ってくる。そして巨大なマネーがF1の世界に入ってきた。もはやモータースポーツもビジネスであり、“スポーツ”というものはどこかに行ってしまった。
もっとも昨今の流れを見ているとオリンピックですら金のためにどうにかなってしまいそうである、まったくマネーの力は底知れぬものだ。
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