【ホンダ、トヨタ、日産…】ニッポンのクルマ 奇跡の勝利列伝

1975年

 日本車として初めてWRCで勝利したTE27レビン

 ホンダ、日産ときたらトヨタの「奇跡の勝利」も紹介したい。’75年フィンランド1000湖ラリーでのWRC日本車初優勝だ。マシンはTE27レビン、ドライバーはハンヌ・ミッコラ。

 その2年前、WRCの創設年となる’73年にも、トヨタはTE20カローラでスポット参戦したアメリカでのラリーで優勝しているが、これはローカルイベント。世界を相手に勝ち抜いたといえるのは、やはり’75年の1000湖ラリーだろう。

 同年、トヨタは名ラリードライバーのオベ・アンダーソンが代表を務めるTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)を設立。TTEからの要求に応え、日本サイドが2TーGエンジンのパワーアップを実現した。ノーマル市販車の115psに対し、185psに達していたといわれるワークスカーで、WRC初優勝を遂げたのだ。

 当時トヨタの社員だった竹平素信氏はこう振り返る。

 「その2〜3年前、俺たちが日本のトヨタで戦っていた頃はまったく歯が立たなかったのに、TTEになってすぐに勝ったのには本当に驚いた。俺たちが夢見ながらできなかったことをやってくれて、すごく嬉しかった記憶があるよ。

 でも、レビンの性能というより地元フィンランドのドライバー、ミッコラのウデによる部分が大きかったと思う。当時のラリーはドライバーのウデが勝負に占める割合が今よりずっと大きかったからね。それも含めてトヨタの勝利なんだけどね」

 その後トヨタはWRCの常連メーカーとなり、何度もタイトルを獲得。勝つことは「奇跡」でもなんでもなくなった。その第一歩を記した’75年の1000湖ラリーはファンの記憶に深く刻まれる勝利だった。

1991年

 エンジニアが語るマツダ787Bル・マン制覇の長い24時間

 世界を相手に戦い、奇跡的な勝利を収めたといえば’91年のマツダ787Bによるル・マン24時間レースの優勝は外せない。なんといってもル・マンでの日本車の優勝は、後にも先にもこの一度きりなのだ。

 しかし、この話はあまりにも有名で、何度も見聞きしたという読者が多いだろう。ここでは少し視点を変え、787Bの開発に携わっていた、マツダのあるエンジニア氏の回想を紹介したい。

マツダ787Bの開発に携わっていた元エンジニアの回想録

 そもそもマツダがル・マンでの優勝を狙っていたのは前年の’90年だったんです。その年を最後にレギュレーションが変わり、’91年からはエンジンが3.5ℓNAに一本化されることになっていましたから。

 それだけに’90年は全社挙げての活動となり、4ローターエンジンのパワーもどんどん上げていきました。でも、本命の787は2台ともリタイア。もう1台の767Bも20位に終わりました。

 もうル・マンはできないなと思っていたら、3.5ℓエンジンで参戦するチームが少ないということでレギュレーションの変更が1年延び、ロータリーに最後のチャンスが与えられたんです。これはやるしかないa と燃えましたね。

 エンジンは800psを目標に開発していましたが、途中で耐久性を考えて700psに変更しました。結果的にはそれが功を奏するわけですが、レース前は冷静に分析して「ベンツには勝てない、ジャガーとはいい勝負、ポルシェには勝てる」というものでした。優勝は難しいかもしれないけど、とにかく悔いのないレースをしたいと思っていましたね。

 私は現地には行かず、日本に残ってTVの生中継を観ていたのですが、レースはその予測とおりに進み、中盤、55号車の787Bはベンツに3〜4周離されて2位を走行。このまま無事に2位でゴールしてほしいと思っていました。でもその後、途中で中継が途切れてほかの番組をやっている時に、マツダが1位を走っているというニュース速報が出たんですよ。

 その直後くらいに現地のスタッフから電話が入り「ここまできたらいくでa」という弾んだ声が聞こえました。20時間を経過したくらいでしたが、その後はもうドキドキで、とにかくこのままゴールまで走ってくれと願うばかりでした。

 TV中継は午後11時に再開されたんですが、最後だけは1時間遅れの録画中継だったんですよ。放送が始まって55号車がまだ1位を走っているのを確認した直後、また現地から電話がかかってきて「勝ったでa」という報告を受けました。次々と話す相手が代わってみんなで喜び合い、私も妻と一緒に号泣しました。エンジニアとしては嬉しいのと同時に、壊れなくてよかったという安心感が大きかったです。

 あのレースは、ワークス体制で勝つためのシナリオを作り上げ、そのとおりに実行できた実感がありますね。優勝したのは55号車でしたが、それをサポートする18号車、さらにそのサポートとしての56号車と、戦略上の役割が明確だったのもよかったと思います。サポート役をさせられたドライバーとしては複雑な思いもあったかもしれませんが、それがチームとしての最善策だったんです。

 18号車は途中でドライブシャフトを交換したんですが、トラブルがあったわけではなく、念のためにバラして55号車のためのデータを取ったんです。そういう戦略がよかったんでしょう。

 優勝した翌日の社内は大騒ぎでしたね。夜は大勢の仲間と祝杯をあげ、胴上げ大会になりました。ロータリーの可能性とマツダの挑戦する姿勢を証明できて、本当によかったなと思っています。

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