【ホンダ、トヨタ、日産…】ニッポンのクルマ 奇跡の勝利列伝

 昨年開催されたラグビーW杯で日本代表は「奇跡の勝利」を連発!年末年始にも数多くそのシーンが繰り返し取り上げられた。この奇跡は永遠に消えることがないと思えるほど日本人を感動させた。

  しかし、奇跡は日本のクルマ界にも存在して来た。日本のクルマ界にもあった「奇跡の勝利」を探したのがこの企画。

  1964年に開催された第2回日本グランプリのスカGvsポルシェ(結局勝てなかったけど)のほかにも、感動の戦いは数多くありました!


1965〜1988年

 かつてホンダF1は、「奇跡の勝利」の宝庫だった

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 日本のモータースポーツにおける「奇跡の勝利」といえば、’65年F1第10戦メキシコGPでのホンダの初優勝が筆頭に挙げられるだろう。東洋のちっぽけな会社が突如F1を始め、2年目に優勝を飾る。こんな映画のような物語を、あの頃のホンダは現実に成し遂げたのだ。

 元ベネトンメカニック、現F1解説者の津川哲夫氏は少年時代、この快挙をレース数カ月後に知ったという。

 「当時は全然情報がなく、F1の結果はレース数カ月後にカーグラフィック誌に写真付きで載るのを見るしか方法がなかったんだよ。高くて買えないから立ち読みで、『ホンダが勝ったa』って見た時は驚いたし感動もしたけど、それよりも’64年にホンダがF1に挑戦すると知った時のほうが感動したような気がするな。戦後生まれで、すがるものがない時代に育っていたから、世界に打って出るという姿勢には、なんにでも感動していたんだよね」(津川氏)

 初優勝のドライバーはリッチー・ギンサー。チーム監督の中村良夫が東京のホンダ本社に「来た、見た、勝ったa」と電報を送ったのは有名なエピソードだ。

 ホンダは’67年にも第9戦イタリアGPで優勝し、再び奇跡を起こすが(ドライバーはジョン・サーティス)、’68年を最後に撤退。その後、’83年のシーズン途中に復帰するまで15年間のブランクが続くことになる。

 日本のレースファンにホンダF1の「奇跡」を思い出させたのは復帰2年目の開幕戦ブラジルGP。ホンダのV6、1・5ℓエンジンを搭載したウィリアムズホンダのケケ・ロズベルグが2位表彰台を獲得したのだ。

 朝日新聞は「ホンダ驚異のカムバック」と題した4段抜きの記事を掲載。日本にF1ブームがやってくる前のことであり、いかに驚きを持って捉えられたかがわかる。

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 ウィリアムズホンダは翌’85年に4勝、’86年には9勝を挙げてコンストラクターズチャンピオンを獲得。そして’88年、マクラーレンホンダMP4/4がセナ、プロストのドライブにより16戦15勝という歴史的快挙を達成する。

 その戦績は「奇跡」に値するが、当時のホンダエンジンは無敵の存在で、いわば勝って当たり前の立場。やはり「奇跡の勝利」にふさわしいのは’65年のホンダF1第一期での初勝利と、そして津川氏が言うように、まだ市販車を作り始めたばかりの弱小メーカーだったホンダが、F1に挑戦したその姿勢だったのかもしれない。

1970〜1971年

 世界で一番過酷なラリーを続けて制覇したブルーバード(510)と240Z

 日本車がラリーで世界に挑戦した歴史は古い。トヨタは’57年にクラウンでオーストラリア1周ラリーに初挑戦して完走。翌’58年には日産も同ラリーにダットサン210型で挑戦し、見事クラス優勝を勝ち取っている。

 しかし、世界レベルの戦いでの「奇跡の勝利」となると、そこから10年以上を経た’70年が最初。日産が510ブルーバードSSSで勝ち取ったサファリラリーの初優勝がそれだ。

 日産は’63年からサファリラリーへの挑戦を続けており、’66年と’69年にクラス優勝。’70年の総合初優勝はこうした「継続する力」があってこそだったのだ。

 当時、毎年サファリラリーを取材していた三本和彦氏はかつてBCの取材でこう語っている。

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 「’70年のブルーバードは総合優勝、クラス優勝、チーム優勝の三冠を獲得したんです。3年連続で優勝していたプジョーも3位に食い込むのがやっとなほどブルーバードは速かった。独立懸架サスペンションになって転ばなくなってね。

 その強さを欧州勢もわかっていたから、’70年はフォードやポルシェ、ランチアのワークス勢が押し寄せて、コースもパワーに勝る欧州勢に有利なように高速コースに変わっていたんですよ。それでも無交換でサファリを走破できるショックと燃費のよさ、耐久性の高さがあったから勝てたんだね。

 それに難波靖治監督の戦略もよかった。中盤までトップを走っていたポルシェの背後にピタリとついて、焦らせてオーバースピードで走らせた。結局ポルシェはエンジンブローでリタイアしてしまうんだけど、ポルシェを焦らせる〝ポルシェ追い抜き禁止令〟を出した難波さんの知恵には恐れ入ったよ」

 欧州勢が本気で日産をつぶしにきているなかでの勝利だったことがよくわかる。翌’71年も日産はマシンをフェアレディ240Zに替えて2年連続優勝を達成。ドライバーは’70年、’71年ともに地元ケニアのエドガー・ヘルマンだった。

 この240Zに関しては、市販モデルがアメリカ市場を席巻したことも日本車「奇跡の勝利」のひとつといえる。

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 ’70年にダットサン240Zとしてアメリカに投入され、瞬く間に大ヒット。スポーツカーといえばジャガーやポルシェなど1万ドル以上するクルマしかなかった時代に、3600ドルで現われた240Zに若者たちは飛びついたのだ。

 もちろん安さだけでなく流麗なデザイン、直6、2・4ℓSOHC、150psエンジンなど、クルマとしての魅力も大きかった。

 240Zはその年のアメリカの「スポーツカー・オブ・ザ・イヤー」に選出。米国日産の設立者で「Zカーの父」と呼ばれる故・片山豊氏が退職する’77年までの8年間で、実に38万台もの販売台数に達した。

1975年

 日本車として初めてWRCで勝利したTE27レビン

 ホンダ、日産ときたらトヨタの「奇跡の勝利」も紹介したい。’75年フィンランド1000湖ラリーでのWRC日本車初優勝だ。マシンはTE27レビン、ドライバーはハンヌ・ミッコラ。

 その2年前、WRCの創設年となる’73年にも、トヨタはTE20カローラでスポット参戦したアメリカでのラリーで優勝しているが、これはローカルイベント。世界を相手に勝ち抜いたといえるのは、やはり’75年の1000湖ラリーだろう。

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 同年、トヨタは名ラリードライバーのオベ・アンダーソンが代表を務めるTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)を設立。TTEからの要求に応え、日本サイドが2TーGエンジンのパワーアップを実現した。ノーマル市販車の115psに対し、185psに達していたといわれるワークスカーで、WRC初優勝を遂げたのだ。

 当時トヨタの社員だった竹平素信氏はこう振り返る。

 「その2〜3年前、俺たちが日本のトヨタで戦っていた頃はまったく歯が立たなかったのに、TTEになってすぐに勝ったのには本当に驚いた。俺たちが夢見ながらできなかったことをやってくれて、すごく嬉しかった記憶があるよ。

 でも、レビンの性能というより地元フィンランドのドライバー、ミッコラのウデによる部分が大きかったと思う。当時のラリーはドライバーのウデが勝負に占める割合が今よりずっと大きかったからね。それも含めてトヨタの勝利なんだけどね」

 その後トヨタはWRCの常連メーカーとなり、何度もタイトルを獲得。勝つことは「奇跡」でもなんでもなくなった。その第一歩を記した’75年の1000湖ラリーはファンの記憶に深く刻まれる勝利だった。

1991年

 エンジニアが語るマツダ787Bル・マン制覇の長い24時間

 世界を相手に戦い、奇跡的な勝利を収めたといえば’91年のマツダ787Bによるル・マン24時間レースの優勝は外せない。なんといってもル・マンでの日本車の優勝は、後にも先にもこの一度きりなのだ。

 しかし、この話はあまりにも有名で、何度も見聞きしたという読者が多いだろう。ここでは少し視点を変え、787Bの開発に携わっていた、マツダのあるエンジニア氏の回想を紹介したい。

マツダ787Bの開発に携わっていた元エンジニアの回想録

 そもそもマツダがル・マンでの優勝を狙っていたのは前年の’90年だったんです。その年を最後にレギュレーションが変わり、’91年からはエンジンが3.5ℓNAに一本化されることになっていましたから。

 それだけに’90年は全社挙げての活動となり、4ローターエンジンのパワーもどんどん上げていきました。でも、本命の787は2台ともリタイア。もう1台の767Bも20位に終わりました。

 もうル・マンはできないなと思っていたら、3.5ℓエンジンで参戦するチームが少ないということでレギュレーションの変更が1年延び、ロータリーに最後のチャンスが与えられたんです。これはやるしかないa と燃えましたね。

 エンジンは800psを目標に開発していましたが、途中で耐久性を考えて700psに変更しました。結果的にはそれが功を奏するわけですが、レース前は冷静に分析して「ベンツには勝てない、ジャガーとはいい勝負、ポルシェには勝てる」というものでした。優勝は難しいかもしれないけど、とにかく悔いのないレースをしたいと思っていましたね。

 私は現地には行かず、日本に残ってTVの生中継を観ていたのですが、レースはその予測とおりに進み、中盤、55号車の787Bはベンツに3〜4周離されて2位を走行。このまま無事に2位でゴールしてほしいと思っていました。でもその後、途中で中継が途切れてほかの番組をやっている時に、マツダが1位を走っているというニュース速報が出たんですよ。

 その直後くらいに現地のスタッフから電話が入り「ここまできたらいくでa」という弾んだ声が聞こえました。20時間を経過したくらいでしたが、その後はもうドキドキで、とにかくこのままゴールまで走ってくれと願うばかりでした。

 TV中継は午後11時に再開されたんですが、最後だけは1時間遅れの録画中継だったんですよ。放送が始まって55号車がまだ1位を走っているのを確認した直後、また現地から電話がかかってきて「勝ったでa」という報告を受けました。次々と話す相手が代わってみんなで喜び合い、私も妻と一緒に号泣しました。エンジニアとしては嬉しいのと同時に、壊れなくてよかったという安心感が大きかったです。

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 あのレースは、ワークス体制で勝つためのシナリオを作り上げ、そのとおりに実行できた実感がありますね。優勝したのは55号車でしたが、それをサポートする18号車、さらにそのサポートとしての56号車と、戦略上の役割が明確だったのもよかったと思います。サポート役をさせられたドライバーとしては複雑な思いもあったかもしれませんが、それがチームとしての最善策だったんです。

 18号車は途中でドライブシャフトを交換したんですが、トラブルがあったわけではなく、念のためにバラして55号車のためのデータを取ったんです。そういう戦略がよかったんでしょう。

 優勝した翌日の社内は大騒ぎでしたね。夜は大勢の仲間と祝杯をあげ、胴上げ大会になりました。ロータリーの可能性とマツダの挑戦する姿勢を証明できて、本当によかったなと思っています。

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