関越道と首都高が接続する構想は現在も公式に存在している。実はその構想には、首都高の“ある出口”が関わっている。メイン写真をみてほしい。これがその“ある出口”のものだが、単なる出口とは思えないほど長い。
関越道は全国各地と首都圏を結ぶ主要高速道路のなかで唯一、首都高とつながっていない。現在、その首都高との接続計画はどうなっているのか? 実在した幻の計画から、その行方を探る。
文:ベストカーWeb編集部/写真:首都高速道路、編集部
関越道と首都高の接続、鍵を握る「早稲田出口」
関越道は、東京の練馬インターチェンジ(IC)から新潟県の長岡ジャンクション(JCT)までの間を結ぶ高速道路。
終点の長岡JCTで、北陸自動車道と接続しているほか、途中のJCTで圏央道、上信越道、北関東道と接続するなど、関東だけでなく中部地方にまで繋がる道路ネットワークの一翼を担っている。
しかし、東京側起点の練馬ICは首都高と接続していない。東名高速も、中央道も、東北道も首都高とつながっているのに、なぜ関越道だけ首都高と接続してないのか?
実は関越道と首都高をつなぐ構想は1970年代から存在している。その計画を象徴するのが、メイン写真の首都高5号池袋線「早稲田出口」なのだ。
独特な早稲田出口の形状にヒント
さて、件の早稲田出口、実際に走ってみると単に“出口”として設計されていたとは思えない。なぜなら、首都高本線との分岐から一般道に降りるまでの距離が異例なほど長いからだ。
それはなぜか? 何を隠そう、この早稲田出口こそが関越道に繋がる路線の分岐点として設計されたと“言われている”からだ。
では、実際のところ、この早稲田出口はどのような経緯で設計されたのか? 真相を確かめるべく首都高広報課に聞いたところ、やはり早稲田出口は別路線との接続も想定して設計されたものだった。
「(早稲田出口の)分岐構造は、練馬線も含む構想路線および出入口等の接続の可能性を考慮して設置されたものです」(首都高広報課)
ちなみに首都高5号線の早稲田出口の建設が始まったのは1974年3月25日で、実際に開通したのは1987年1月23日。
早稲田出口の前後区間、西神田出入口〜護国寺出入口間が開通したのは1969年のことなので、早稲田出口は周囲の区間より約20年も後になって開通したということになる。
こうした時系列の流れからも早稲田出口が、ほかの出入口とは違い、他路線との接続を検討して後から作られたことがよくわかる。
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