■半導体の前は真空管
ところで、自分のことであるが大学で専攻したのは電子通信工学。家電メーカーは1970年代から1980年代の花形産業だったし、「家電立国日本」と揶揄されていた時代だったので、就職は家電メーカーに人気があった。当時は歴史が浅いが新しい学問として脚光を浴びていたのが電子工学。ところが電気をエネルギーとして扱う学問の電気工学は歴史が長い。実は私が通った大学は「八木アンテナ」を発明した八木秀次先生が学長だったこともあり、電子・通信の学部として電子通信工学科を設立していた。
電子工学とは何かも知らない学生がいきなり真空管の実験をさせられた。実は半導体を理解するには真空管まで遡るし、真空管は英語では「ヴァキューム・チューブ」と呼び、今のYouTubeの語源はここから来ている。真空管はガラスで封印した真空の空間(あるいは低圧ガス)に、正負の電極が熱せられ、高温になった電極から電子が放出する。これが電子回路の原理であるが、電源を入れてもすぐに反応しない真空管にとって替わったのが半導体だった。
ところが、半導体に使われるシリコンなどの個体(チップ)は電圧や電流を変えることで電子を通したり、通さなかったりする特性(整流やスイッチング)を自在に制御できる。真空管と違ってすぐに使えるし、何よりも「小さいこと」が半導体の最大のメリットであった。
■半導体が登場する前は
話は変わり、1960年代のこと。元日産自動車のエンジニアで初代FFのチェリーを開発した故・千野甫(ちのはじめ)さんにインタビューしたときのエピソードが面白い。
千野さんが日産へ吸収される前のプリンス自動車(富士精密)に入社したときの体験談であるが、工学部の学生は計算尺を使って強度計算を習っていたものの、企業に入ると計算を得意とするタイガー計算機がいたるところで使われていた。「設計部はガリガリ、ガチャガチャと工場みたいにうるさくて、計算が終わるとチーンって鳴っていたね」と千野さんは語っていた。
私も1970年代にお遊びで参加した大学の計算ラリーのこと。後席にまな板を縛り付けその上にパイロット社の計算機を置いてラリー中に計算していた。そこで使われていたタイプライターのような大きさの計算機はやがて小型化し、ハンディタイプのクルタ計算機(リヒテンシュタイン製)にとって替わった。そしてそれもつかの間、1980年には半導体を使ったラリーコンピューターが登場し、ナビゲーターの仕事はかなり楽になった。
このように半導体の登場でコンピューターが小型化するが、米国では暗号解読や軍事技術のために国をあげて半導体の開発に注力していた。
当時はサンフランシスコ周辺に最先端な軍事研究所が設立され、スタンフォード大学やカリフォルニア大学バークレイ校などに巨額の政府資金が投じられ、半導体の町となった。それゆえそこが「シリコンバレー」と呼ばれるようになった。
■なぜ日本は半導体事業を失敗したのか
半導体は冷戦時代にアメリカから興ったイノベーションなので、インテルなど米国企業が強かったが、日本も大手電気メーカーがトランジスタやIC(集積回路)に投資し、仮にモノマネといわれようが、丁寧で効率のよい生産システムを武器に、急成長した。電子立国といわれたのは1980年代だった。1990年には世界の半導体メーカーの売り上げ上位10社のうち6社は日本企業であったが、その後は凋落の一途をたどることになってしまった。バブル崩壊で企業の投資が衰えたとも言われるが、最大の理由は日米の貿易摩擦が発端となり、政府間の協議の上、1986年に日米半導体協定が締結されたのである。
今になって考えてみると、貿易摩擦は半導体だけではなかった。有名なのは自動車だ。旧態依然とした生産設備がアメリカメーカーの問題でもあったが、アメリカの民衆のあいだでは「日本車が悪者」とした批判が強まっていった。
アメリカが日本に突きつけたのは関税撤廃やアメリカ市場への投資と雇用確保であった。1975年のマスキー法(世界一厳しい排気ガス規制)を世界初でクリアしたCVCCエンジンでホンダの名声は高まっていたが、予期せぬ貿易摩擦の逆風にさらされたのである。ホンダはいち早くアメリカに工場を作り、1982年は日系メーカー初のメイドインUSAのアコードをラインオフさせたのである。これに続いてトヨタや日産もアメリカに進出し、貿易摩擦はなんとか乗り越えることができた。
だが、電気業界は自動車とは異なっていた。半導体と自動車は生産数とコストの関係式があまりにも違っていたからだ。
自動車は大量生産が前提であるが、コスト削減には限界があった。だが、半導体はICからLSI(大規模集積回路)へと、どんどん小型化していった。と同時に韓国や台湾というライバルも登場し、電子立国日本という言葉は死滅した。
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