シボレー・アストロ改造計画
国産車の人気車を売って業績を上げていたが、次第にアメ車を扱うことが多くなってきた。ロサンゼルスやシカゴのオークション会場に行く回数も増えてきた。
本格的に販売するようになったのが1995年。アメリカでは個人売買が普通に行われていた。個人雑誌に載った情報をもとに売り手を訪ね、コルベットやキャデラックも買った。真偽は不明だが、白いキャデラックはバスケットボールのスーパースター、デニス・ロッドマンが乗っていたものだと説明を受けたという。
そのころ、日本ではシボレー・アストロというミニバンが人気を集めていた。そこで、翔はあることに気付いてしまう。アストロは左ハンドル。当時、片方にしかなかったスライドドアは右側だった。
「日本だと、右にスライドドアということは、車道側に人は降りるしかないわけ。おかしいよ、危ないよね。だから、左側にも作ろうってことになったわけ(笑)」
そこで、アメリカに直接行って、作ってくれる工場を探した。しかし、簡単ではなかった。
工場を見つけたものの、ガソリンの給油口が左側にあった。これを変えないと、スライドドアはつかないからだ。ただ、今でこそ両開きのモデルはあるが、95年当時はない。困難は伴うが、「これはできたら、絶対日本で売れる!」と確信した。
グラスファイバーで、ドアを作らせるのだが、なかなか作業が進まない。なだめすかして、やらせてようやく出来上がったのが1年半後。3台が完成した。
大きな期待とは逆に、反応は芳しくなかった。2台しか売れなかった。「経費がかかりすぎて、大損したかな(笑)」
できたドアの仕上がりも、微妙だった。「開いて閉まるだけ。ガクガクって動いて、ガッコンって。やっぱり、なんちゃってなんだよね(笑)」
でも、発想は良かったことは間違いない。子供たちの安全のために左スライドドアを作ろうとしたのだから。「“家族のための両側スライドドア”って、キャッチフレーズまで思いついちゃって(笑)。夢があったよね」
代わりに、通常のアストロはかなり売ったという。
「もちろん失敗もあるけど、アメリカに行ったことで、(クルマを輸入する際に支え合える)仲間もできた。楽しかったなあ」
そんな思い入れのある仕事だったが、97年までに会社をたたんでしまった。
「オレがやめたのは、いろんなこともあるけど、若者のクルマ離れというのかなあ。同じ情熱で話せる奴がいなくなってきた。クルマ熱を感じられなくなって、つまんなくなってきた。そういう中で、小さいクルマが出回って。日本車はやっぱりいいわけよ。ベンツもBMWも以前よりステイタスがなくなって、ベンツのAクラスやCクラスを普通の足として乗り出す人が出てきた。その中古が2、3年落ちだと100万円ぐらいで市場に出るわけよ。そしたら、そっちのほうがいいわけ。お客さんとの会話も例えば、『やっぱ、アメ車壊れますかね?』って言うのに対して、『壊れるに決まってんだろ』『ほ~ら、やっぱり壊れた』って(笑)。でも、どんなに壊れても、オレたちは投げ出さないから。そういう約束のもとに商談が成立してきた人たちがいなくなってしまった。これはもうダメだなって。もういいかと」
銀蝿は「ハコスカ」でいたい
銀蝿の40周年に際して、大好きなクルマに喩えて思うことがあるという。昭和40年代に生産され、一世を風靡したスカイラインの3代目のこと。角ばった箱型の形状から「ハコスカ」の愛称を持つ名車だ。
「銀蝿って、ハコスカでいたいなって思うのね。街をハコスカが走っていると、みんなが『おおっ』てなるじゃない。今のクルマのように性能がいいわけじゃない。ただ、そこに味があって、必ずみんなが見て、いいなって思う。ただの中古車は古いクルマのことだけど、ハコスカは見た時の存在感がある。銀蝿はそんな存在でいたい」
クルマは今でも、身近な存在だ。ただ、ここ数年、クルマ熱は昔よりも冷めていた。乗っていたベンツのSLが最近壊れてしまったので新たなクルマを買おうとしているところだが、現状は地元を移動するにはスズキの軽自動車で十分。周囲に刺激を与えてくれるようなクルマを乗っている人がいないのも理由だった。
「ただ、今回の取材を受けて、歴代のクルマを振り返っていると、またクルマ熱に火が付いちゃった(笑)」
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