時は1997年。元F1ドライバー中嶋悟氏の横に並ぶのは、当時20歳の佐藤琢磨である。
——インディ500優勝の20年前、まだ無名だった琢磨を取材をした筆者は、他のドライバーとは違った一面を彼から感じていた。
文:段純恵/写真:Mobility land、Indy Car
20歳……まだ無名だった琢磨からの“ある質問”
もう20年も昔の話だ。
雑誌の企画だったか、F1へのステップアップを目指している若手ドライバーに話を聞く記事で取材対象を探していたところ、ある関係者から「今年始まった鈴鹿レーシングスクール(SRS)で講師より速い子がいるよ」と教えられ、さっそく会うことにしたのが、当時20歳の佐藤琢磨選手だった。
新宿サザンテラスのカフェで会ったのだが、1対1のインタビューって初めてなんです、と言うわりに緊張の気配はまったく感じられない。こちらに真っ直ぐ視線を向けるが、かといって気まずくさせるでもない。
弁舌さわやかに相手の気を逸らさない話し方、『希望』という文字が躍っているような明るい表情は、果たして天性のものかそれとも教育の賜か。
どんなご両親の元でこんな好青年が育ったんだ?、と本題そっちのけで聞いてみると、父は弁護士で母は、○○座ってご存じですか?、母はそこの舞台女優なんです、と誇らしげに教えてくれた。
その後、レース活動について何を話して何を聞いたのか記憶が定かでない。だがひとつだけ、ハッキリ覚えていることがある。
「F1に行くには何が必要ですか?」
と、佐藤選手に逆質問されたのだ。
それまでにも似たような経験はあったが、『どうしたらF1に行けますか』という曖昧な質問ではこちらも抽象的な概略しか答えようがない。
だが、目の前で姿勢を正している青年は違っていた。
F1ドライバーとして何を備えるべきかと真剣な目で聞く相手が、決して大きいとはいえない、だが引き締まった精悍な身体の中に、誰も知らない、だが、見ればそれとわかる強い信念を秘めていることを強烈に感じた瞬間だった。
異例の早さで渡英、そしてF1へ
ともあれ、その月末にSRSを主席で卒業した佐藤選手は、翌年、全日本F3選手権を2戦だけ経験して渡英。
そのまた翌年のF1イギリスGPのパドックで、久々に再会した佐藤選手に唐突な渡英の経緯を訊ねると、まぁいろいろありまして、と照れ笑いで前置きした後、「予定より早かったけど、結果的にあのタイミングでこちらにきて本当に良かったです」と、私の心配を吹き飛ばすスッキリした表情を見せた。
それから今に至る佐藤選手の経歴は、改めてここで説明するまでもなかろう。今回、佐藤選手がインディ500で勝ったことで何人かに聞かれた質問がある。
『佐藤琢磨はなぜF1で勝てなかったのか』。
とてもひと言で答えられる質問ではない。
東洋からの“挑戦者”に立ちはだかった壁
欧州時代の佐藤選手は、F3、F1時代を通して一発の速さは備えていた。
だが、特にF1に乗ってからは、焦りからと思える無駄な接触やクラッシュが目立ち、F1初心者にありがちな勢いだけでパスしようとする、冷静さを欠いたドライビングで自滅することもあった。
だが、ジョーダン、BAR、スーパーアグリのマシンでは、多少の無理を承知で走らなければ上位を狙えない、それが現実だったこともまた、確かだった。
佐藤選手が勝てるチーム、勝てるマシンに乗っていたら、彼のF1でのドライビングスタイルもリザルトも当然違っていたと思う。
2004年、ミシュランタイヤへのスイッチを2年がかりでようやく実現させたBARが、チーム、マシンと揃って最もよい状態だったあのシーズン、レギュラードライバーに昇格した佐藤選手が第9戦アメリカGP(奇しくも場所はインディ500の舞台インディアナポリス・モータースピードウェイだったが、コースはオーバル区間の一部とインフィールドエリアを組み合わせたグランプリコース)で3位となった。
その時、私が感じたのは、佐藤選手がF1初にして唯一となった表彰台に登った喜びよりも、彼が勝てるチーム、勝てるマシンで走っていたら、優勝も王座も狙えるドライバーなのに、という口惜しさだった。
東洋からの挑戦者に対して、F1界は決して甘くない。
ヨーロッパに本拠を置くF1のトップチームが東洋人をナンバー1ドライバーとして起用するなど、私には夢物語としか思えない。
ナンバー2ならあるかもしれないが、それだって能力や資金力が同程度の欧州系ドライバーがいたら、チームは迷わずそちらを選ぶ。それがF1の現実なのだ。
残念ながら、佐藤選手には同時代に王座を欲しいままにしたミハエル・シューマッハのようなインパクトと政治力(マネージメントや資金)はなかった。
彼に付帯していたのはホンダとの関係のみだった。SRSからいまに至るまで、すべてホンダエンジンで走ってきた生粋のホンダ・ドライバーである佐藤選手がF1で勝つためには、ホンダ自身がチーム体制、マシン、エンジンのすべてにおいて勝てる力を持っていることが必須だった、というのが私の見解だ。
このことについて、佐藤選手自身がどう思っていたのか、私は今だ本人に尋ねたことはない。聞く必要のない質問だと、いまでも思っている。
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