F1を乗りこなす体力がなかったセナ。伝説は雨のモナコGP“幻の優勝”から始まった

F1を乗りこなす体力がなかったセナ。伝説は雨のモナコGP“幻の優勝”から始まった

 非力なトールマンでデビュー。早々に傷だらけの6位入賞、そしてモナコGPではあわや優勝かと思われた活躍など……、当時チーフメカニックだった津川哲夫氏が間近で見た天才エヤトン(アイルトン)・セナについて振り返ってみたい。

文/津川哲夫
写真/池之平昌信、津川哲夫

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悪夢のイモラ、タンブレロコーナー。波乱万丈のわずか10年

 5月になると思い出すのはエヤトン(アイルトン)・セナのこと。もちろん彼がイモラのタンブレロコーナーで命を絶った、その命日が5月1日だから。

 事故当時、現場上空にはいつまでもテレビ局のヘリコプターがホバリングを続け、ピットレーンには鉛の重さが漂い、誰もが口を閉ざし青ざめていた。筆者はこの重苦しい空気感を何度か経験していたので、残念ながら状況が最悪であることを察知してしまった。

 セナがF1を走ったのはわずか10年。1984年にデビューしてこのイモラまで、猛スピードで駆け抜けて行った。驚異の新人、ワールドチャンピオンへの挑戦者、そしてワールドチャンピオン、ライバルとの確執、3度のワールドチャンピオン……。最後、トップランナーとしてイモラのタンブレロに消えるまで、波乱万丈の10年だった。

驚異の新人エヤトン(アイルトン)・セナの登場

 セナのデビューは鮮烈で、84年のデビュー2戦目の南アフリカで新人ながら6位入賞の快挙。しかし彼はまだF1を乗りこなすまでの体力ができ上がっていなかった。ゴール後のパルクフェルメに到着後、消耗しきっていたセナはコックピットでほぼ気絶、自力でおりることができなかった。首はむち打ち症、手の甲は擦過傷、肩は脱臼一歩手前……満身創痍の状態でのゴール。まさに気力だけで走りきり、体力と気力を限界まで使い切っての6位入賞だった。

 レース後の夜、撤収作業中のピットに現れたセナは、ネックガードと腕をつった三角巾、さらに拳は包帯でぐるぐる巻き状態だった。我々の“ウェル・ダン”よくやったね! の声掛けに「とりあえず1ポイントは取れたのだから意味はあったね」とクールに答えていたのが実に印象的だった。つまり“入賞できなければ意味なし”と言い切るのだ、わずかデビュー2戦目の若造が!!

 しかしこの若造は翌ベルギーグランプリでも6位でフィニッシュ。しかし「レースは最低だった」と機嫌が悪い。既に到達している6位にはもはや意味がないと言うわけだ。一見高慢なこの若者は彼の意識が決して強がりでも見栄でもないことを第6戦、雨のモナコで証明して見せたのだ。

これがセナ伝説の始まりとなる雨のモナコ“幻の優勝”物語だ

 激しい雨のレースで、13番手からスタートをしたセナは、あれよあれよと言う間に、抜けないモナコでごぼう抜き、最終的にトップを走るプロストに肉迫。わずか数秒差まで追い上げ、ブレーキに不調をきたしたプロストに迫った。しかしここで競技長は雨足のひどさからレースを赤旗中断と判断。この結果順位は最終ラップでの順位ではなく赤旗が振られた前の周の順位がリザルトとなった。そしてセナは2位に甘んじたのだ。

 レース後パルクフェルメに到着したセナは荒れまくっていた。「勝てたのに、俺は勝てたのに!!」と怒鳴りながら脱いだヘルメットをコックピットに叩きつけていた。

 この赤旗にはいろいろな疑惑が投げられた。モナコはフランス人のプロストに勝たせたかったがゆえに……など、疑惑の赤旗として後世に語り継がれることになった。雨の中で圧倒的な速さを見せたセナ。あと1周でプロストを抜いていたら、セナが勝っていた。勝てなかったのは……などの陰謀論が語られ、物語はセナ伝説の極みを造り出した。

1984年デビューの第5戦からこのトールマンTG184が使用された。ロリーバーンが設計したこのマシンでモナコで2位。第10戦イギリス・最終戦ポルトガルでも3位に入った

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