2024年12月25日、スズキ株式会社相談役の鈴木修氏が逝去。日本の自動車界が悲しみに暮れた。1979年の初代アルト以来、ほぼすべてのスズキ車に関わってきたと思われる鈴木修氏。修イズムが反映されたスズキの名車を集めてみた。
※本稿は2025年1月のものです
文:片岡英明、ベストカー編集部/写真:スズキ、ベストカー編集部
初出:『ベストカー』2025年2月26日号
スズキのカリスマ経営者が天国へ……
スズキのカリスマ経営者・鈴木修氏が2024年12月25日に逝去された。享年94。謹んでご冥福をお祈りいたします。
鈴木修氏が1958年に鈴木自動車工業(現スズキ:1990年10月に社名変更)に入社後、70年弱が経過しているが、本企画で謳う「鈴木修時代」とは1978年6月の社長就任から2021年6月に相談役になるまで、とした。
その間に登場したスズキ車のなかから、片岡英明氏が「これぞ」という名車を選出、解説していく。
徹底してユーザー目線を貫き、使い勝手とコストパフォーマンスに優れたモデルを、斬新なアイデアで生み出し続けてきた鈴木修氏。
その足跡を辿ることで、その偉大さがあらためてわかるはずだ。
【画像ギャラリー】修イズムは永遠に!! 常にユーザー目線で挑戦を続けた鈴木修時代のスズキ車たち(33枚)画像ギャラリー「アルト47万円」の衝撃
徹底したコスト低減とグラム単位の軽量化、そして視点を変えたクルマづくりによって世界のトップ10に名を連ねる自動車メーカーへと昇り詰めたのがスズキだ。その経営トップとして巧みなハンドルさばきを見せ、大きく飛躍させたのが鈴木修さんである。
前身の鈴木自動車工業に入社したのは、第一次軽自動車ブームの幕が開けた1958年の4月だ。そして取締役社長に就任したのは1978年6月である。軽自動車は新規格になり、ボディサイズと排気量を拡大していた。だが、オイルショックと排ガス規制のダブルパンチによって新車の販売は大きく落ち込んでいる。
混迷している時期に、当時取締役だった鈴木修さんは、新しい発想とひらめきで新ジャンルの軽自動車の開発を告げた。
実用性重視の軽自動車は価格が高いと売れないと考え、開発陣に「軽自動車の原点に立ち返り、コスト低減を徹底して50万円以下の低価格で販売できる新しい軽自動車を開発してくれ」と命じ、強い行動力で量産化を目指したのである。
そして誕生したのが初代アルトだ。物品税がかからず、保険料も安い軽商用のボンネットバンで、当時としては異例の全国統一価格47万円を打ち出し、ライバルメーカーを驚かせている。発売されるやアルトは大ヒットを飛ばし、ライバルメーカーも慌てて追随した。
【画像ギャラリー】修イズムは永遠に!! 常にユーザー目線で挑戦を続けた鈴木修時代のスズキ車たち(33枚)画像ギャラリー1980年代には早くもインドに進出
1981年には当時、世界一を誇ったゼネラルモーターズと提携を結び、コンパクトカーのカルタスを開発。同じ時期にインド政府と合弁会社を立ち上げ、1983年に工場は操業を開始。時代に先駆けて海外と手を結んだ鈴木修さんの先見の明に脱帽だ。1990年代になるとハンガリーにも生産拠点を築き、成功させた。
スズキは鈴木修体制のもと、1980年代に飛躍する。FF方式を採用したボンバンのアルトは80万台を超えるヒット作となり、これに続いて個性的なセルボとマイティボーイを投入した。
スポーツ派を唸らせたのは、第2世代のアルトに加わった「ワークス」だ。軽自動車初のDOHC4バルブインタークーラー付きターボで、フルタイム4WDも用意している。その走りは異次元の速さとパワフルさだった。お上からパワー規制を命じられるほど刺激が強かったのだ。
小型乗用車市場へはGMのSカーとしての役割も担うカルタスを送り込んでいる。北米ではシボレー・スプリントを名乗り、EPAの燃費ランキングでは常に上位にランクされた。カルタスはスイフトの前身だから走りもスポーティだ。DOHC4バルブを積む2代目GT-iはサーキットでも痛快な走りを披露した。
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