海外でも特別なブランド力を持つ日本のスーパースポーツモデルとして人気がある日産GT-R。しかし、時代はカーボンニュートラルへと急速に向かっていて、エンジン車、特にハイパフォーマンスカーの存続は極めて困難な状況にある。
そうなると、GT-Rはこのまま消滅してしまうのか? それとも次期モデルはEV化で生き残ることになるのか? 日本が誇るスーパースポーツ、GT-Rが生き延びるための方法をモータージャーナリストの鈴木直也氏が考察する。
文/鈴木直也
写真/NISSAN、Audi、ベストカー編集部
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■現行GT-Rの誕生は奇跡のようなものだった
いま思い返すと、R35GT-Rが生まれたのはほとんど奇跡みたいなものだったといえる。
まず、タイミングがドンピシャだった。
経営危機に陥った日産にカルロス・ゴーンがやってきたのが1999年。そして「日産リバイバルプラン」で2兆1000億円という巨額の有利子負債を完済し、劇的に業績が回復するのが2003年。
ちょうどそのタイミングで水野和敏さんが開発責任者に任ぜられ、R35プロジェクトが本格的に始動する。借金を返し終え、攻めの経営に転じる転換点で、ブランドのシンボルとなるクルマが求められていたのが追い風となったのだ。
さらに、水野和敏という超個性的なエンジニアの存在がまた、ある種の奇跡といえる。
■最も日産らしくない方法で生まれた「日産らしいクルマ」
カルロス・ゴーンが独裁権力を振るっていた当時、ホワイトボードを前に口から唾を飛ばしGT-Rの必要性を熱く語ったのが水野和敏。トップダウンで物事を決められる人がいて、そこから「OK」という答えをもぎ取ってくるプレゼンができる人がいた。こういう条件が揃わなければ、R35GT-Rのようなリスクの高い開発プロジェクトにゴーサインは出なかったと思う。
そして、出来上がったクルマのぶっ飛んでいたこと!
会ったことがある人ならご存知と思うが、水野和敏という人はエンジニアとしては徹底的なエゴイスト。会議をしてコンセンサスを積み上げてゆくのが日本の会社のしきたりだが、そういうものを一切無視して「オレがこう造ると決めたんだからこう造る」というエゴを押し通す。
こういう個性なしにはR35GT-Rのようなトンがったクルマはたぶん生まれなかった。
ご当人に言わせると水野組で固めた開発チームのまわりは敵だらけだったそうだが、だからこそ、いまだに日本のパフォーマンスカーの最高峰に君臨し続けるクルマが生まれたのだ。
残念ながら、奇跡というものはそうちょくちょく起きるものではない。R35GT-Rは今日まで生産が続けられているものの、2007年のデビュー以来モデルチェンジはなく、その間に水野和敏は2012年に日産を定年で退職し、カルロス・ゴーンは2018年に劇的な逮捕・失脚で表舞台を去っている。
カルロス・ゴーン失脚以降、ゴーン路線の歪みが露呈した日産は経営が悪化。電動化へ向けた「自動車業界100年に一度の変革期」を前に、R35GT-Rの後継モデルなど噂にすらならないほど陰が薄い。
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