■小林さんの公正な自動車の評価がそのまま日本自動車のスタンダードになった(徳大寺有恒)
尊敬する小林彰太郎さんが亡くなった。私より6歳年長だから83歳になるはずである。
ずっと小林さんの書くものが好きであった。健康を害されていたが自動車への情熱は変わることはなかった。
小林さんの文章に接したのはモーターマガジン誌で、この雑誌の初期の編集者、伊藤哲さんが小林さんの売り出しにたずさわった。その特集のタイトルは『小林彰太郎』であったが、のちに“スポーツカー・ポートレート”となった。この頃は小林さんも新人で思いが強かったから、おそらく泉のように自動車のことが出てきたんだろうと思う。
二玄社にはいくつも小林さんの本があるが、“スポーツカー”と“クラシックカー”はすばらしい写真集である。
小林さんの文章はいわゆる翻訳調であり、日本文としてはごく普通だが、そこに小林さんの敬愛すべきイギリス的な香りがあって私はとても好きだった。
小林さんはずっと二玄社の仕事をやってこられたのだが、ときおり、ほかの雑誌へもコラムを書いておられた。
二玄社の仕事はCG(カーグラフィック)に加えて単行本などである。この出版社では、「世界の自動車」が小林さんの仕事として光っている。
小林さんは日本の自動車界に多くを語ったが、その立場上決して過激ではなくごく上品な語り口調であった。もっともっと日本車について卒直に語ってもらいたかったが、クルマを愛していることから抜け切れなかった。
このクルマへの愛が小林調の源である。クルマを愛し、クルマの歴史が好きでいつもクルマのことを考えている人。これが小林さんなのである。
小林さんとの旅行はおもしろかった。あれほどクルマ好きなのに運転は上手くなくよく失敗した。ここも楽しいところである。小林さんとはじめての旅は、ヨーロッパだった。アルファ、ジャグァ、アウディ、メルツェデスという旅であったがとても楽しかった。
あのひょうひょうとした風情と少々のおっちょこちょい。これが小林さんである。
小林さんの仕事の件については、もうなにも言うことはない。小林さんの公正な自動車に対する評価、それがそのまま日本のクルマ批判であり、日本の自動車のスタンダードとなった。
小林さんのいいところ、私が言うのもおこがましいが、いつもアマチュアリズムがあるということだろう。いつも少年のように純粋であった。
しかし、この時代の日本車の繁栄ぶりを思うと、日本の自動車工業にとって小林さんがいたということは大変ラッキーなことであったというべきだろう。それはあたかも神のたまわりものともいうべきものであった。
(写真、内容はすべてベストカー本誌掲載時のものです)
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