2013年10月28日、二玄社の自動車雑誌『カーグラフィック』の創刊メンバーであり、世界的に著名な自動車評論家、そして自動車社会史研究者でもあった小林彰太郎氏が亡くなられた。日本のモータージャーナリズムの礎を築き上げた、その功績を振り返る。(本稿は「ベストカー」2013年12月10日号に掲載した記事の再録版となります)
文:三本和彦、徳大寺有恒、編集部
■近寄りがたい威厳があったが、気さくな面も
我らが大先輩、日本の自動車ジャーナリズムの礎を切り拓いてくれた、草分けともいえる小林彰太郎さんが亡くなられた。
『カーグラフィック』を創刊、初代編集長として鋭い自動車評論を発信して名声を博し、名実ともに日本を代表する自動車ジャーナリストの一人だった。
晩年は小誌『ベストカー』にも大いにご協力いただいた。
上の写真は亡くなられる2週間ほど前、幻のホンダS360に試乗していただいた時の写真である(2013年11月26日号)。
いつも目を輝かせ、背筋を伸ばした姿勢で歩く姿に気品を感じさせた。新車発表会などでは目立つ存在で近寄りがたい威厳があったが、目が合うと「おう」と声をかけてくださる気さくな面も持っていた。
まだまだお元気で、我々を引っ張っていっていただけると思っていた。もっともっと、昔のクルマの話をお聞きしたかった。
小林彰太郎さん、本当にありがとうございました。
【画像ギャラリー】日本の自動車ジャーナリズムの礎を築き上げた巨星 小林彰太郎氏の功績を振り返る(6枚)画像ギャラリー■彰太郎さんのことだから天国に乗って行くすばらしいクルマを見つけたんでしょうね。(三本和彦)
彰太郎さん、悲報を聞いた時はショックでしたよ。あなたがいなくなるなんて想像したこともなかった。本当に寂しくなるねぇ。
彰太郎さんとは長い付き合いでした。初めて会ったのはアメリカ大使館で日本語を教えるアルバイト時代。お互い10代の終わりだったから、もう60年以上になります。
彰太郎さんも不思議な男でした。ライオン歯磨(当時)の創業者の長男ですから、アルバイトなんかしなくていいのに、妙に自動車に凝っていて、自動車がほしいからアルバイトに来ましたと言っていました。結局、家業は弟さんに譲って、亡くなるまでクルマの仕事を貫いていたわけですからね。
それにしても、自動車に関する知識はすごかった。特に古いことをよく知っていましたよ。英語で書かれた自動車関係の書物を買い込んで、熱心に読んでいました。
また、アメリカ大使館に自動車好きの外交官がいて、彰太郎さんは英語が達者でしたから、自動車のことを話し込んでいましたね。
僕が東京新聞で写真を撮るようになり、彰太郎さんが自動車雑誌に寄稿するようになってからは、二人で自動車に乗っていろいろな所に出かけました。
当時は写真を撮る人が少なかったから、よく撮影を頼まれました。無給でしたけど、時々ご馳走になった。
ある日、「今日は銀座で食事しよう」というから、喜んでいったらカレーだった。確かに「銀座で食事」に違いないと笑いましたね。
当時の自動車評論家は、運転して性能を評価する人ばかりでしたが、彰太郎さんは違った。その自動車の設計から部品のことまでしっかり勉強して、理詰めで評価した。
彰太郎さんはヨーロッパ車が好きで、特にイギリス贔屓でした。日本車やアメリカ車はまだまだヨーロッパ車に届かない、と言っていました。そこで僕が「じゃ、ヨーロッパでもドイツ車はどうだい」と聞くと、「ドイツ車には華がない、おもしろさに欠ける、と僕は思う」と答えましたね。
彰太郎さんは、自動車に対する深い知識があり、それに基づく自分の意見を持っていてきちんと主張するのですが、「僕は思う」という表現を使って相手に押しつけるようなことはしない。自分とは違う意見に耳を傾け、議論するのが好きでした。
後に、彼も写真を撮るようになり、自分で現像、焼きつけしたいとわが家の暗室にきました。二人で、自動車の議論を交わしながら、写真の作業を朝方までしていたこともありました。
思い出は尽きません。楽しい男で不思議な男でした。あのような不思議な男こそ、もっと長生きしてほしかった。残念です。
彰太郎さん、ほんとうにありがとう。
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