■村上春樹氏の作品に登場する自動車たち
村上作品と「クルマ」との縁は深い。村上春樹は東京でクルマを運転しても楽しくないからクルマにはあまり乗らねぇ、とエッセイで書いているが、小説のなかでは数多くクルマが登場する。
「酒」「タバコ」「レコード」といった村上文学の世界観をかもし出すクールなオシャレアイコンとして「クルマ」もその存在をいかんなく発揮しているのである。
村上作品に初めてクルマが登場したのは、デビュー作の『風の歌を聴け』において、主人公が友達と乗っていたクルマ(フィアット600)を公園にぶつけて大破させるシーン。
特に村上作品ではその出し方がクルマ単体ではなく、必ず「クルマ」と「何か」がセットになっているところが特徴的なのだ。
『風の歌を聴け』では、主人公は散歩と称して愛車を必ず「海岸通り」に止めるのである。または「海岸沿い」を走ってたりする。夕陽をバックにラジオでも聴きながら愛車で海岸付近をぶらつく、というのは春樹の企む貪欲な「オシャレイズム」。俺にかかればクルマってこんなにオシャレ、という力強いメッセージだ。
『風の歌を聴け』から『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険』は同じ主人公がでてくる小説になっており、一貫して主人公はよくフォルクスワーゲンに乗る(なんでかは知らない)。春樹はこれを気に入っていたのか、フォルクスワーゲン(それもボロボロの)を別の主人公が登場する『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にも引き継がせる。
この作品ではフォルクスワーゲンのほかにも、カリーナ1800GTツインカムターボが登場し、ラストで意識を失う主人公の最期を看取る檜舞台としてその存在感を静かに放つ。
その出し方もこれまた「クルマ」と「何か」がセットになっており、『1Q84』ではトヨタのクラウンロイヤルサルーンのタクシーに乗っていたヒロインがクラシックを聞くところから物語が始まるというシーンにあるように、主人公がクルマに乗ろうとするとかならずクラシックやボブ・ディランが流れたりと、「クルマ」と「音楽」がワンセットになるのがオシャレマスター春樹のお気に入りらしい。
これにとどまらず「クルマ」は、村上作品においてさまざまな役割を担ってその作品世界に登場し、初期三部作が終わると、「クルマ」と「死」という危なっかしいモチーフへと変貌しはじめる。
『ノルウェイの森』においては主人公の友人キズキはN360のなかで自殺しちゃうし、『ねじまき鳥クロニクル』でも同様に登場人物がトヨタMR2に乗って自殺を図り、『国境の南、太陽の西』ではBMW320iに乗った主人公が不倫相手とクルマのハンドルを切って自殺すればよかったなあ、と思ったり(春樹の登場人物はしょっちゅう自殺ばっかりするよ)、このように不吉さを匂わすアイテムとして「クルマ」が使われはじめ、『ダンス・ダンス・ダンス』にいたっては、メタファーとしてクルマがはじめて登場し、主人公の乗るクルマは中古のスバルで、友人である五反田の乗るクルマはマセラティという設定で、スバルは貧乏くさいけど親しみやすいクルマと持ち上げ、対するマセラティを高級感はあるが高度資本主義の象徴として、最終的にマセラティもろとも海に沈めちゃう、というマセラティ大泣きの展開、春樹なりの気の利いた資本主義批判が「マセラティ」というクルマを媒介にしておこなわれるのです(マセラティ気の毒)。
最近では『ドライブ・マイ・カー』という小説で主人公が「サーブ900コンバーティブル」に乗っていたりして、クルマが舞台の短編を描いている春樹。
このように村上作品においての「クルマ」は世界観を伝えるオシャレアイコンであったり、メッセージを伝えるメタファーであったりと、さまざまに形を変え、村上春樹文学の世界を彩っているのです。
●TEXT/ドリー…平成生まれの若人ライター。著書に『村上春樹いじり』がある。ブログは「埋没地蔵の館」
(写真、内容、著者肩書き等はすべて『ベストカー』本誌掲載時のものです。ただし必要に応じて注釈等を加えている場合があります)








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