F1最強チームが生んだ究極のロードカーであるそれが「マクラーレンF1 GTR」。中央にドライバーシートを採用した革新的なスーパーカーは、やがて世界のGT選手権やル・マンを席巻した存在だった。そのステアリングを握った中谷明彦氏が告白!!
文:中谷明彦/写真:McLaren、富士スピードウェイ、ベストカーWeb編集部
【画像ギャラリー】黒船の襲来!! 約30年経った今でもラークマクラーレン F1 GTRのオーラは半端なさすぎ!!(7枚)画像ギャラリーレースを制するために産声をあげた名車
マクラーレンF1は1992年に登場したスーパーカーだ。ブラバムF1など数々の名車をデザインしたゴードン・マレー氏が設計を手掛けたということでも話題となった。BMW製5L V12エンジンをミドシップに搭載し、6速マニュアルで後輪を駆動するパワートレーンを構成する。
その基本骨格は、F1マシンの思想を公道に落とし込んだものと言ってよいだろう。特筆すべきはドライバーシートを中央に置き、その左右にパッセンジャーシートを配置した3人乗りのレイアウトであったこと。
重量配分の最適化とともに、ドライバーが車両の中心に座すというシングルシーターのフォーミュラカー思想を体現したものであった。当時「マクラーレンという最強のF1チームが造った究極のロードカー」として大きな注目を集めたのは言うまでもないが、過去にこのマシンを幾度となくドライブする機会に恵まれた。
初期のショートテール仕様は、ロードカーとしての性格が強く、限界域では扱いが難しい印象を持った。実際、1992年の日本GP決勝前、鈴鹿サーキットで行われたお披露目走行では、当時マクラーレンF1チームの代表であったロン・デニス氏自らがステアリングを握り、大観客の前で試走を行ったが、1コーナーで鮮やかなスピンを演じてしまったほどだ。
パワーに対してタイヤグリップが追いつかず、シャシーもまだ未熟であったことが露呈した場面だった。 やがてマクラーレンF1はレース仕様のGTRも仕立てられ、世界中のGT選手権を席巻する。
全日本GT選手権で完全支配も1年限りで撤退!! ル・マン24時間にも挑戦
国内では1996年に「ラーク・マクラーレン」がジョン・ニールセン/デビッド・ブラバム、服部尚貴/ラルフ・シューマッハの2台体制で全日本GT選手権のGT500クラスを席巻。シリーズ1-2位を独占しタイトルを獲得した。
その流れの中で、僕も1997年、チーム郷のル・マン24時間参戦計画に土屋圭市氏と共に選ばれ、F1 GTRのステアリングを託された。事前テストは鈴鹿やセントラルサーキットで全日本仕様のショートデッキ仕様で行われたが、やはり冷間時のピーキーな特性に手を焼いた。
自身も鈴鹿のインラップで派手なスピンを演じ、僕自身はもちろん、チーム関係者も肝を冷やしたことだろう。しかし、タイヤが適温に達すれば服部選手と同等のラップを記録でき、レーシングドライバーとしての適応力を示すことができた。
レース仕様は当時主流のシーケンシャルミッションを搭載していたが、そのシフトパターンが問題だった。レバーを押してシフトアップ、引いてダウンという方式は一般的なレーシングカーのパターンと逆。ドライバーの反射動作に対して違和感を生んだ。
市販車ATの流儀に倣った設計であったというが、僕は改修案を提案し、以後の改善へとつながっていく。レースの世界では、ドライバーの自然な動きに逆らうものは決して受け入れられないし、特に耐久レースではミスを誘発しかねない。
ル・マン24時間では、空力を優先したロングテール仕様が用意された。1995年にはショートテールのまま関谷正徳氏らが総合優勝を飾っているが、速度域の高いサルトサーキットにおいては、より最高速を重視したロングテールが不可欠だった。
我々プライベートチームはワークス勢が空力セットを煮詰める一方で、サスペンションセッティングにも試行を重ねた。仏・ポール・リカールでのテストでは、コースイン後のミストラルストレート途中のシケインでブレーキング時にスピン。幸いダメージはほとんどなかったが、このタイヤ冷間時の扱いにくさは最後まで課題となった。
本番でも僕のスティント中、テルトルルージュでポルシェ911GT1のファビアン・ジロワと競り合った際、後方からのプッシュで空力を失いガードレールに激突。無念のリタイアを喫する結果となった。










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